淡雪さんと鬼生くん
1 何してるんでしょう、わたし
その年は、溶けちゃいそうな暑い夏だったのを覚えている。
雪はその頃就職して五年目で、一人暮らしも同じ時間経験していたけれど、毎日過ごすだけで大変な季節だった。毎朝アパートの扉を開けるたびに立ち上る熱気に、わたし職場に着く前にとろけそうと思った。
でも、今の会社に就職できたことをうれしく感じていた。そこは田舎の小さな土建会社で、雪はおおらかな社長の元、口は悪いけど優しいおじさんたちに囲まれて働いていた。
「淡島さん、何やってるんですか」
……だから親会社からやって来た、見るからに切れ者の若いお兄さんに、わかりやすく怯えていた。
ぴっと喉の奥で悲鳴みたいな声を上げて振り向く。
「淡島さん!」
その拍子に、雪は足を滑らせて脚立から滑り落ちた。
でも背中に回った腕が、雪を落下から守ってくれた。一瞬の沈黙の後、すとんと床に下ろされる。
「あ、ありがとうございます……」
至近距離に鼻筋の通った理知的な顔がある。雪は瞬時に赤くなるより青くなって、もぞもぞと後ずさった。
「なんでバールなんて持って脚立に上ってたんですか」
なぜって、彼……鬼生が、そう鋭く追及してくることがわかっていたからだ。
怜悧、迅速、それで辣腕。鬼生は親会社から来て三か月で、傾きがちだった会社の経理を刷新してくれたが、その言うこともやることも容赦がない。
雪はばつが悪そうにもそもそと言葉を返す。
「すみません。通気口を触ったら、冷房が効きやすくならないかなぁ……と思って」
かろうじてリストラにはまだ着手していないけど、自分みたいなとろんした社員、じきに首を切られてしまうんじゃないだろうか。そう思うくらいには、雪は自分のことがわかっている。
鬼生はきつめの目でじっと雪を見下ろして、不可解というように続けた。
「カーディガン着てるくらいなんだから、暑くないでしょう」
「私はまあ、そうですけど……。みんな、暑い暑いって言ってますから」
「夏場のあいさつみたいなものです。自分が暑くないなら放っておけばいいんです。怪我でもしたらどうするんですか」
「ふふ。向かいが病院ですから、すぐ運んでもらえるかなぁ……って」
雪はふにゃりと笑って冗談を言ったが、鬼生の顔面はぴくりとも動かない。
「冷房の温度を下げるように言っておきます」
鬼生はそっけなく言って、踵を返した。
ああ、これはだめな子だと思われた。求人票、どうやって書こう……と雪なりに前向きに考えていた。
そんな暑い夏だったが、幸いまだ雪にリストラの話はなく。九月になって、風の匂いが変わってきた頃、雪の住むアパートに彼氏がやって来ることになった。
「これは……嫌がるかな」
アパートは築四十年の四階立て、ちょっとボロいけど、近所でうぐいすが鳴くのが聞こえるのが気に入っている。ただ山ぎわだから、虫が共用スペースの廊下に入り込むのが困ったことだった。
雪自身は虫なんて慣れっこだけど、美容師の彼は眉をひそめて、めったに雪のアパートに近づかない。嫌がるものはいけないだろうと、朝からいそいそと廊下の掃除をした。
「あ、こおろぎ。そんな季節なんだなぁ」
ただ、しゃがみこんでほのぼのするくらいは許してほしい。彼は、ゴキブリとどこが違うんだよと言うけれど、全然違う。秋の訪れを感じて、ほっこりする。
自分の部屋の近くだけのつもりだったけど、時間もあったし他の共用部分もついでに掃除することにした。
まだ汗はにじむけど、鼻歌でも歌いながらほうきとちりとりを動かして、大体三十分。
「……何してるんですか」
「ぴっ」
職場じゃなかったから完全に油断していた雪に、覚えのある声がかかった。
雪はちょうどアパートを一周回って、右隣の部屋の前を掃除していた。いつの間にかその扉が開いていて、鬼生が顔をのぞかせていた。
けど、鬼生は休日だからかルームウェア姿で、前髪は降りているからか、表情もいつもと少し違っていた。不機嫌……のようにも見えるのが、雪には不思議だった。
「あ、えと……今日、と、ともだちが来るので」
「それ、アパート中掃除するくらい楽しみですか」
鬼生の眉間のしわがぎゅっと詰まったが、雪は和ませようとふにゃりと笑ってうなずく。
「はい。大好きな人ですから」
冗談半分、でも嘘を言ったわけでもなかった雪に、どうしてか鬼生は一瞬とても怖い顔をした。
普段無表情な人なのに珍しいな。あ、休日のゆっくりした時間にうるさくしたのがいけなかったかな? そう思った雪のポケットで、携帯が鳴った。
ラインを確認すると彼からで、雪はにこにこした顔のままメッセージを見る。
その表情が、次の瞬間しゅんと萎んだ。
「来れないんだ……」
思わず声が沈んだのは、これが三度目のキャンセルだったからだった。
彼とは一年前から付き合っていて……でも、この夏の間は会っていなかった。
隣県の都会でバリバリ働いている彼は、田舎で細々と暮らす雪とは全然違うけど、まぶしくて、憧れだった。
忙しいのは知っている。キャンセルのメッセージも、言い訳も何にもない、とにかく平謝りだった。
彼を責めるつもりはないけど……やっぱり、しょんぼりする。
「淡島さん」
気が付けば携帯にぽたりと雫が落ちていて、はっと我に返る。
顔を上げれば、鬼生が複雑そうな顔で立っていた。雪は気まずいところを見られてしまったと思って、わたわたと笑顔を作る。
「は、あはは、何してるんでしょう、わたし」
雪は言いつくろうように言葉をこぼす。
「だめですね、わたし、いい人だと言われたくて……都合のいい人間になってる。しっかり、しなきゃ」
自分は鬼生のようにきちんとした大人ではないけど、子どもでもないわけだから。雪はきゅっと涙を拭って、自室に戻ろうとする。
「……いい人のどこが悪いんですか」
ふいに鬼生の声が雪を呼び止める。雪が足を止めると、鬼生は言葉を続けた。
「悪いのは、それをだます人間だけです」
振り向いた雪の目に映ったのは、すっと目を細めた鬼生の表情だった。
「きれいですよ」
雪は掃除した場所のことを言われたのだと思ったけど、鬼生はまっすぐ雪を見ていた。
「俺よりよほど綺麗です」
雪が頭を下げて慌てて立ち去るまで、鬼生は何かを考え込むように雪を見て動かなかった。
雪はその頃就職して五年目で、一人暮らしも同じ時間経験していたけれど、毎日過ごすだけで大変な季節だった。毎朝アパートの扉を開けるたびに立ち上る熱気に、わたし職場に着く前にとろけそうと思った。
でも、今の会社に就職できたことをうれしく感じていた。そこは田舎の小さな土建会社で、雪はおおらかな社長の元、口は悪いけど優しいおじさんたちに囲まれて働いていた。
「淡島さん、何やってるんですか」
……だから親会社からやって来た、見るからに切れ者の若いお兄さんに、わかりやすく怯えていた。
ぴっと喉の奥で悲鳴みたいな声を上げて振り向く。
「淡島さん!」
その拍子に、雪は足を滑らせて脚立から滑り落ちた。
でも背中に回った腕が、雪を落下から守ってくれた。一瞬の沈黙の後、すとんと床に下ろされる。
「あ、ありがとうございます……」
至近距離に鼻筋の通った理知的な顔がある。雪は瞬時に赤くなるより青くなって、もぞもぞと後ずさった。
「なんでバールなんて持って脚立に上ってたんですか」
なぜって、彼……鬼生が、そう鋭く追及してくることがわかっていたからだ。
怜悧、迅速、それで辣腕。鬼生は親会社から来て三か月で、傾きがちだった会社の経理を刷新してくれたが、その言うこともやることも容赦がない。
雪はばつが悪そうにもそもそと言葉を返す。
「すみません。通気口を触ったら、冷房が効きやすくならないかなぁ……と思って」
かろうじてリストラにはまだ着手していないけど、自分みたいなとろんした社員、じきに首を切られてしまうんじゃないだろうか。そう思うくらいには、雪は自分のことがわかっている。
鬼生はきつめの目でじっと雪を見下ろして、不可解というように続けた。
「カーディガン着てるくらいなんだから、暑くないでしょう」
「私はまあ、そうですけど……。みんな、暑い暑いって言ってますから」
「夏場のあいさつみたいなものです。自分が暑くないなら放っておけばいいんです。怪我でもしたらどうするんですか」
「ふふ。向かいが病院ですから、すぐ運んでもらえるかなぁ……って」
雪はふにゃりと笑って冗談を言ったが、鬼生の顔面はぴくりとも動かない。
「冷房の温度を下げるように言っておきます」
鬼生はそっけなく言って、踵を返した。
ああ、これはだめな子だと思われた。求人票、どうやって書こう……と雪なりに前向きに考えていた。
そんな暑い夏だったが、幸いまだ雪にリストラの話はなく。九月になって、風の匂いが変わってきた頃、雪の住むアパートに彼氏がやって来ることになった。
「これは……嫌がるかな」
アパートは築四十年の四階立て、ちょっとボロいけど、近所でうぐいすが鳴くのが聞こえるのが気に入っている。ただ山ぎわだから、虫が共用スペースの廊下に入り込むのが困ったことだった。
雪自身は虫なんて慣れっこだけど、美容師の彼は眉をひそめて、めったに雪のアパートに近づかない。嫌がるものはいけないだろうと、朝からいそいそと廊下の掃除をした。
「あ、こおろぎ。そんな季節なんだなぁ」
ただ、しゃがみこんでほのぼのするくらいは許してほしい。彼は、ゴキブリとどこが違うんだよと言うけれど、全然違う。秋の訪れを感じて、ほっこりする。
自分の部屋の近くだけのつもりだったけど、時間もあったし他の共用部分もついでに掃除することにした。
まだ汗はにじむけど、鼻歌でも歌いながらほうきとちりとりを動かして、大体三十分。
「……何してるんですか」
「ぴっ」
職場じゃなかったから完全に油断していた雪に、覚えのある声がかかった。
雪はちょうどアパートを一周回って、右隣の部屋の前を掃除していた。いつの間にかその扉が開いていて、鬼生が顔をのぞかせていた。
けど、鬼生は休日だからかルームウェア姿で、前髪は降りているからか、表情もいつもと少し違っていた。不機嫌……のようにも見えるのが、雪には不思議だった。
「あ、えと……今日、と、ともだちが来るので」
「それ、アパート中掃除するくらい楽しみですか」
鬼生の眉間のしわがぎゅっと詰まったが、雪は和ませようとふにゃりと笑ってうなずく。
「はい。大好きな人ですから」
冗談半分、でも嘘を言ったわけでもなかった雪に、どうしてか鬼生は一瞬とても怖い顔をした。
普段無表情な人なのに珍しいな。あ、休日のゆっくりした時間にうるさくしたのがいけなかったかな? そう思った雪のポケットで、携帯が鳴った。
ラインを確認すると彼からで、雪はにこにこした顔のままメッセージを見る。
その表情が、次の瞬間しゅんと萎んだ。
「来れないんだ……」
思わず声が沈んだのは、これが三度目のキャンセルだったからだった。
彼とは一年前から付き合っていて……でも、この夏の間は会っていなかった。
隣県の都会でバリバリ働いている彼は、田舎で細々と暮らす雪とは全然違うけど、まぶしくて、憧れだった。
忙しいのは知っている。キャンセルのメッセージも、言い訳も何にもない、とにかく平謝りだった。
彼を責めるつもりはないけど……やっぱり、しょんぼりする。
「淡島さん」
気が付けば携帯にぽたりと雫が落ちていて、はっと我に返る。
顔を上げれば、鬼生が複雑そうな顔で立っていた。雪は気まずいところを見られてしまったと思って、わたわたと笑顔を作る。
「は、あはは、何してるんでしょう、わたし」
雪は言いつくろうように言葉をこぼす。
「だめですね、わたし、いい人だと言われたくて……都合のいい人間になってる。しっかり、しなきゃ」
自分は鬼生のようにきちんとした大人ではないけど、子どもでもないわけだから。雪はきゅっと涙を拭って、自室に戻ろうとする。
「……いい人のどこが悪いんですか」
ふいに鬼生の声が雪を呼び止める。雪が足を止めると、鬼生は言葉を続けた。
「悪いのは、それをだます人間だけです」
振り向いた雪の目に映ったのは、すっと目を細めた鬼生の表情だった。
「きれいですよ」
雪は掃除した場所のことを言われたのだと思ったけど、鬼生はまっすぐ雪を見ていた。
「俺よりよほど綺麗です」
雪が頭を下げて慌てて立ち去るまで、鬼生は何かを考え込むように雪を見て動かなかった。

