「雨の交差点で、君をもう一度」

プロローグ「雨の交差点」

 雨の匂いが、夏の終わりを告げていた。
 灰色の雲がビルの隙間を覆い、街は薄いフィルムのような湿気に包まれている。傘を差す人々が行き交い、舗道のタイルは濡れて色を濃くしていた。
 私は駅前の横断歩道で信号待ちをしながら、手に持ったスマホの画面をぼんやりと眺めていた。着信履歴もメッセージも、特に変化はない。けれど、胸の奥が妙にざわついて、落ち着かない。

 赤信号の向こう側には、見知らぬ顔の群れ。
 色とりどりの傘が小さな花のように揺れている。その中に、もしも過去の誰かが混じっていたら——そんな馬鹿げた想像がふっと浮かび、すぐに打ち消した。
 七年も前のことだ。私の高校時代、そしてあの人のことなんて。

 ——ぱしゃ、と水たまりが跳ねる音が、傍らで響いた。
 次の瞬間、肩にかかっていた雨粒がふっと軽くなり、頭上に新しい影が差す。透明な膜が、私をすっぽりと覆った。

「濡れますよ」

 低くて落ち着いた声。耳の奥で波紋のように広がる。
 思わず顔を上げた。黒いスーツに、整ったネクタイの結び目。高い鼻梁の下、雨に濡れた睫毛がわずかに伏せられている。
 視線が合った瞬間、息が止まった。

「……神宮寺くん?」

 自分の声がかすれているのがわかった。
 彼は一瞬だけ目を見開き、それから、懐かしい笑みをほんの少し浮かべた。

「香山、だよね」

 名前を呼ばれた胸が、熱くなる。
 信号が青に変わり、人の群れが一斉に歩き出す。私たちは半歩遅れて横断歩道に足を踏み出した。雨粒が傘の縁から落ち、白黒の縞模様に小さな波紋を描く。

「久しぶり。……七年ぶり、かな」

「うん。……久しぶり」

 並んで歩く距離が、少しだけぎこちない。
 彼は昔と同じように背が高く、歩幅が広い。それでも私の速度に合わせて歩みを緩めてくれているのがわかる。そのさりげない優しさも、何も変わっていなかった。

「今、どこで働いてるの?」

 不意に尋ねられて、少し笑ってしまう。
「広告代理店。駅前のビルにあるの。神宮寺くんは?」

「グループ企業の事業部長。……同じ案件で会うかもしれないね」

 事業部長——肩書きの重さが、彼との距離を一気に広げたような気がした。
 それでも、傘の中に漂うのはあの頃の空気。雨音に混じる彼の声が、耳の奥をくすぐる。

 横断歩道を渡り切った時、彼は傘をわずかに傾け、私の肩が雨から逃げる角度を作ってくれた。
 その仕草に、言葉が喉まで上がってくる。——また、会いたい。けれど。

「また——」

 私がそう言いかけた瞬間、彼の視線が私の肩越しに逸れた。
 振り向くと、淡いベージュのコートを纏った綺麗な女性が立っていた。髪は雨でわずかに濡れ、頬に沿ってしっとりと張り付いている。彼女は自然な動作で彼の腕に触れ、微笑んだ。

「あ、部の者。先に行ってて」
 彼は女性にそう告げ、それから私に向き直る。
「香山、また連絡する」

 それだけ言うと、彼は傘を私の頭上から離し、女性と並んで歩き出した。
 黒い背中が、雨のカーテンの向こうに遠ざかっていく。声も、体温も、急速に薄れていった。

 残された私は、通り過ぎる人々の傘の間で立ち尽くす。
 指先に残るのは、さっきまでの温もりの幻。胸の奥に広がるのは、七年前と同じ、言えなかった言葉の重さ。

 ——高校三年の卒業式。
 教室の扉の前で、私は最後まで「好き」を口にできなかった。
 そのまま時間は流れ、彼は大人になり、私は私の場所で生きてきた。再会なんて、物語の中の出来事だと思っていたのに。

 信号が再び赤に変わる。
 濡れたアスファルトに、街灯の光がにじんで揺れている。
 私は小さく息を吐き、スマホを握り直した。——連絡なんて、本当に来るのだろうか。期待しないほうがいい。そう自分に言い聞かせるのに、胸はもう、期待で痛くなっていた。
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