「雨の交差点で、君をもう一度」
第1章「再会の名刺」
翌日、出社してパソコンを立ち上げた瞬間、社内掲示板に表示された来客予定に目が止まった。
「星和ホールディングス 神宮寺遥斗」——黒文字が、昨日の雨の匂いを呼び起こす。
息を飲む音を誰かに聞かれた気がして、慌てて画面をスクロールした。
「香山、会議室Bの資料、最終確認お願いね」
背後から声をかけてきたのは、企画部の先輩・千草さんだ。短めのボブをきりっとまとめ、眼鏡の奥の目はいつも仕事モード。
「今日の相手、手強いよ。噂の若手部長ってやつ」
「……はい」
声が少し上ずった。千草さんは気づかないふりで、資料束を私に手渡した。
会議室Bはガラス張りの壁越しに中が見える。扉の向こうに、黒いスーツの背中。姿勢がすっと伸び、何気ない所作に無駄がない。
昨日と同じ人——神宮寺遥斗。
彼は隣の女性スタッフと穏やかに話しながら、テーブル上の資料を一瞥するだけで全体像を掴んでいるようだった。
時間になり、打ち合わせが始まる。
冒頭から、彼の声は落ち着いていて、しかし的確に刺さる。
「前回ご提案の動画案、ターゲット層の選定は悪くない。ただ、情緒の置き場所が曖昧だ。最後の数秒に、観る側の感情を引っ張る言葉を置けていない」
私は手元の原稿をめくりながら、その指摘に内心で頷く。
彼はあくまでビジネスの顔。昨日の交差点の柔らかさは欠片もない。——それが正しい。会議は感情を持ち込む場所じゃない。
「香山さん」
名指しされて、背筋が伸びる。
「このテキスト、“かもしれない”を二度続けるのは弱い。“たとえば”で留めた上で、“だから”に繋げたほうが締まる」
「はい。……“かもしれない”は一度に削って、“だから”で結論に」
「そう」
短く頷くと、彼は私の手元にあるメモ用紙を指先で押さえ、さらさらと補正式を書き込んだ。その指先が一瞬だけ私の指に触れ、心臓が無駄に跳ねる。
「……ありがとうございます」
「仕事だから」
あまりにも即答で、微笑すら伴わない。
わかっている。それでいい。だけど、雨の下で傘を傾けてくれた人と同じ人物とは、どうしても思えなかった。
休憩時間。千草さんが紙コップのコーヒーを差し出しながら、小声で囁く。
「ねえ、神宮寺さんって、薬指に指輪してない?」
私は思わずコーヒーをこぼしそうになった。
「……え?」
「結婚か婚約か……どっちにしても、片瀬さんと自然な距離感だったよね。お似合いだった」
片瀬さん——会議中、彼の隣に座っていた女性だ。仕事ができそうで、笑顔も上品で、触れる空気がやわらかい。昨日のベージュのコートの人と重なり、胸の奥がざわついた。
会議が再開し、議題は次のキャンペーン案へ。
淡々と進行する中で、私は何度も彼の横顔を盗み見た。視線が合うたび、彼はすぐに逸らす。その動きが、私の気のせいでなければ——避けているように見えた。
終盤、名刺交換の時間がやってくる。
「今後の連絡は、僕と——」と彼が言いかけたところで、片瀬さんが一歩前に出た。
「実務は私がハンドルしますね。神宮寺の時間は限られてますから」
「……助かる」
二人のやり取りがあまりに自然で、私の喉が詰まる。
名刺入れから名刺を抜き、震える指で差し出す。重なった瞬間、彼の視線が一瞬だけ私を捉えた。
「よろしく、香山さん」
「はい……よろしくお願いします、神宮寺さん」
仕事用の呼び方。彼もそれを望んでいるのだろう。
“くん”と呼びたい衝動を、必死に飲み込んだ。
会議室を出ると、廊下で同期の佐伯奏多が手を振っていた。
「おつかれ、美桜。今日の相手、緊張した?」
「した……すごく」
「だよな。でもさ、俺は香山の作るテキスト、一番好きだよ」
軽い口調で、あっさり褒める。その優しさに、少しだけ肩の力が抜ける。
「昼、行く? 辛いの食べると元気出るだろ」
「うん。行く」
歩き出す前、ガラス越しにロビーが見えた。
神宮寺遥斗と片瀬さんが並んで立ち、何かを話している。片瀬さんが笑い、彼も口元をわずかに緩める。その光景が、胸に小さな棘を残した。
昨日の雨、七年前の卒業式——何も言えなかった自分が、また顔を出す。
私と彼の間には、言葉より先に立ちはだかる何かがあるような気がした
「星和ホールディングス 神宮寺遥斗」——黒文字が、昨日の雨の匂いを呼び起こす。
息を飲む音を誰かに聞かれた気がして、慌てて画面をスクロールした。
「香山、会議室Bの資料、最終確認お願いね」
背後から声をかけてきたのは、企画部の先輩・千草さんだ。短めのボブをきりっとまとめ、眼鏡の奥の目はいつも仕事モード。
「今日の相手、手強いよ。噂の若手部長ってやつ」
「……はい」
声が少し上ずった。千草さんは気づかないふりで、資料束を私に手渡した。
会議室Bはガラス張りの壁越しに中が見える。扉の向こうに、黒いスーツの背中。姿勢がすっと伸び、何気ない所作に無駄がない。
昨日と同じ人——神宮寺遥斗。
彼は隣の女性スタッフと穏やかに話しながら、テーブル上の資料を一瞥するだけで全体像を掴んでいるようだった。
時間になり、打ち合わせが始まる。
冒頭から、彼の声は落ち着いていて、しかし的確に刺さる。
「前回ご提案の動画案、ターゲット層の選定は悪くない。ただ、情緒の置き場所が曖昧だ。最後の数秒に、観る側の感情を引っ張る言葉を置けていない」
私は手元の原稿をめくりながら、その指摘に内心で頷く。
彼はあくまでビジネスの顔。昨日の交差点の柔らかさは欠片もない。——それが正しい。会議は感情を持ち込む場所じゃない。
「香山さん」
名指しされて、背筋が伸びる。
「このテキスト、“かもしれない”を二度続けるのは弱い。“たとえば”で留めた上で、“だから”に繋げたほうが締まる」
「はい。……“かもしれない”は一度に削って、“だから”で結論に」
「そう」
短く頷くと、彼は私の手元にあるメモ用紙を指先で押さえ、さらさらと補正式を書き込んだ。その指先が一瞬だけ私の指に触れ、心臓が無駄に跳ねる。
「……ありがとうございます」
「仕事だから」
あまりにも即答で、微笑すら伴わない。
わかっている。それでいい。だけど、雨の下で傘を傾けてくれた人と同じ人物とは、どうしても思えなかった。
休憩時間。千草さんが紙コップのコーヒーを差し出しながら、小声で囁く。
「ねえ、神宮寺さんって、薬指に指輪してない?」
私は思わずコーヒーをこぼしそうになった。
「……え?」
「結婚か婚約か……どっちにしても、片瀬さんと自然な距離感だったよね。お似合いだった」
片瀬さん——会議中、彼の隣に座っていた女性だ。仕事ができそうで、笑顔も上品で、触れる空気がやわらかい。昨日のベージュのコートの人と重なり、胸の奥がざわついた。
会議が再開し、議題は次のキャンペーン案へ。
淡々と進行する中で、私は何度も彼の横顔を盗み見た。視線が合うたび、彼はすぐに逸らす。その動きが、私の気のせいでなければ——避けているように見えた。
終盤、名刺交換の時間がやってくる。
「今後の連絡は、僕と——」と彼が言いかけたところで、片瀬さんが一歩前に出た。
「実務は私がハンドルしますね。神宮寺の時間は限られてますから」
「……助かる」
二人のやり取りがあまりに自然で、私の喉が詰まる。
名刺入れから名刺を抜き、震える指で差し出す。重なった瞬間、彼の視線が一瞬だけ私を捉えた。
「よろしく、香山さん」
「はい……よろしくお願いします、神宮寺さん」
仕事用の呼び方。彼もそれを望んでいるのだろう。
“くん”と呼びたい衝動を、必死に飲み込んだ。
会議室を出ると、廊下で同期の佐伯奏多が手を振っていた。
「おつかれ、美桜。今日の相手、緊張した?」
「した……すごく」
「だよな。でもさ、俺は香山の作るテキスト、一番好きだよ」
軽い口調で、あっさり褒める。その優しさに、少しだけ肩の力が抜ける。
「昼、行く? 辛いの食べると元気出るだろ」
「うん。行く」
歩き出す前、ガラス越しにロビーが見えた。
神宮寺遥斗と片瀬さんが並んで立ち、何かを話している。片瀬さんが笑い、彼も口元をわずかに緩める。その光景が、胸に小さな棘を残した。
昨日の雨、七年前の卒業式——何も言えなかった自分が、また顔を出す。
私と彼の間には、言葉より先に立ちはだかる何かがあるような気がした