「雨の交差点で、君をもう一度」
第8章「言わない善意は刃になる」
翌朝八時半、会議室Bはまだ冷房の匂いが残っていた。
私は一足先に入り、プロジェクターとケーブルを自分の手で何度もつなぎ直す。電源ランプの小さな光が点るたび、胸の奥に昨日の失敗の残像が疼いた。
扉が開く音。神宮寺が入ってきた。ネイビーのスーツに、淡いストライプのシャツ。目の下に薄く疲れの影がある。
「おはよう」
「おはようございます」
昨日より少しだけ低い声。沈黙が間に落ちる前に、私は慌てて言葉を継いだ。
「接続は事前に三回確認済みです。予備のケーブルも用意しました。スライドはローカルとクラウドに二重保存して——」
「わかった。ありがとう」
短く頷き、彼はPCを開いた。打鍵の音が速い。目が資料を走る速度に合わせて、私の喉が渇く。
「……昨日はすみませんでした」
勇気をかき集めて、ようやく出した声は小さかった。
彼は少しだけ手を止め、こちらを見た。
「原因は機材側だ。君のせいじゃない」
「でも——」
「ただ、外では言わない。言い訳に聞こえる。だから僕が先に事実を押さえる」
外では言わない。
それは私を守るための言葉のはずなのに、胸のどこかがきゅっと縮む。
——どうして、言ってくれないの。どうして、その場で「彼女のせいじゃない」と言い切ってくれなかったの。
言えない善意は、形がないぶん鋭い。
九時。千草さんと奏多、数名のメンバーが入り、再確認のミーティングが始まった。
チェックリストに沿って一つずつ潰していく間、神宮寺は穏やかに指示を出し、詰めるべきピースを冷静に差し込んでいく。
終盤、片瀬さんが資料を配りながら、さらりと口にした。
「昨日の件、本部長には“原因不明”で伝えておきました。余計な印象を与えるのは避けたいので」
原因不明——その言い回しの曖昧さに、私の胸がまた波立つ。
神宮寺がすかさず補った。
「機材ログは回収済み。週明けにメーカー報告が出る。社外への説明はそこで確定させる」
きれいな正論。けれど“いまの私”には届かない。
会議が終わり、全員が散ったあと、私はホワイトボードを消していた。
背後で椅子の脚が床を擦る音。振り返ると、神宮寺が立っていた。
「香山」
「はい」
「昨日の場でフォローしなかったのは、君を責めていないからだ。個人の問題にすると、そのまま君にラベルが貼られる。事故はシステムの問題として処理する」
——正しさは、時々残酷だ。
私は頷くことしかできない。
「……ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いじゃない。僕の仕事だ」
柔らかく突き放す言い方。心地よくない距離感。
言葉の端に、言わない何かが残る。その何かを、私は“婚約者”というラベルで埋めてしまう。
昼少し前、私はエレベーターホールで役員秘書に呼び止められた。
「神宮寺様をお探しですか? 本社会議室にいらっしゃいますが」
「いえ、資料を届けるだけなので……」
廊下の奥から話し声が近づく。
片瀬さんと、見慣れない上品な女性。歳は三十代半ばだろうか、白いワンピースに短いジャケット。
「——志乃様、こちらへ。神宮寺が間もなく戻ります」
志乃。神宮寺の——
名前の一致が胸の奥を冷たく撫でた瞬間、ガラス越しに彼の背中が見えた。
女性は微笑みながら一歩近づき、自然な所作で彼の左腕に触れる。
「遥斗、時間大丈夫?」
「……母さん、ここでは」
——母?
足が止まり、次の瞬間、血の気が引く。
母親、志乃。落ち着いた佇まいと、息子を気遣う柔らかな声。
それでも、私の耳は“触れた腕”“呼び方の親密さ”ばかりを拾ってしまう。
都合よく、恋人に見える角度だけを。
片瀬さんが気づき、私に目礼した。
「香山さん、資料でしたらお預かりします」
「あ……お願いします」
ファイルを渡し、一礼して背を向ける。
振り返らない。振り返れない。
心の中で「母」という単語を繰り返しながら、映像は別の意味に書き換わっていく。
——“婚約者の家族”。
頭では否定できるのに、体は先に痛みを覚えていた。
午後、内線で呼ばれ、私は急ぎの修正を神宮寺のデスクへ持っていった。
彼は電話の相手に静かに応対していた。「はい、志乃です」「ええ、今は——」
受話器越しの名字が、現実をもう一度突きつける。
電話を切った彼がこちらを見る。
「さっきの件、助かった」
「いえ」
いつも通りの会話しかできない。
彼がペンを置きかけ、ふと何か言いかけた。
「香山——」
そこへ、別の社員が駆け込んでくる。
「神宮寺さん! 本部長がお呼びです。例の数値の件、直接確認したいと」
「すぐ行く」
彼は一度だけ私を見て、小さく頷き、早足で去った。
胸の中に、言われなかった言葉がまた一つ、刃のように残る。
夕方、雨が降り出した。
窓の外の街路樹が濡れ、信号の赤が滲む。
私は帰り支度をしながら、机の引き出しから薄いブルーの封筒を取り出した。
卒業式の日に渡せなかった色に、今も指先が迷う。
——いまも、私は何も渡せないままなのかもしれない。
エレベーターで一階へ降りると、ロビーに神宮寺の姿があった。
志乃と呼ばれた女性はもういない。代わりに、別部署の二人が彼の周りに集まり、明日の打ち合わせの確認をしている。
彼の視線がふと私を掠め、すぐに外れる。
すれ違う距離。
その瞬間、彼の左手の指輪に雨の光が反射した。濡れた夜の光が小さな輪に滲む。
私が視線を落とす前に、彼がかすかに口を開いた。
「——気をつけて帰れ」
それだけ。
私は頷き、傘を開いた。雨粒が布を叩き、音が近くなる。
駅へ向かう途中、背後から駆け足の音がした。
「美桜!」
奏多だ。少し濡れた前髪を手で払って、息を整える。
「今夜、時間ある? 飯でも行かない?」
神宮寺の指輪の光、志乃の声、言われなかったフォロー。
全部が胸の中で渦を巻き、私はうなずいた。
「……うん。行こ」
雨の匂いが、また少し濃くなった。
駅ビルの上の小さな定食屋で、温かい湯気が眼鏡を曇らせる。
奏多はいつもの調子で、私が笑える話題を選んでくれる。
食後、アイスティーの氷が鳴ったとき、彼がまっすぐに言った。
「俺さ、美桜に言ってないことがある」
胸がぎゅっと縮む。
「高校のときから、お前のこと、ずっと見てた。俺が“味方”って言い続けてるのは、ただの同期だからじゃない。……俺は、お前が好きだ」
言葉はまっすぐで、優しくて、誠実だった。
私の中の空洞に、温度がそっと置かれる感覚。
でも、その温度は別の形に似ていて、私はゆっくりと視線を落とす。
「……ありがとう」
それ以上の言葉が続かない私を、奏多は責めなかった。
「急がなくていい。俺は待つ。俺にも、言ってないことがあったから——ちゃんと伝えたかっただけ」
店を出ると、雨は小降りになっていた。
駅の改札までの数十歩、私は自分の足音だけを聞く。
言ってくれた人と、言わない人。
守るための沈黙は、時に残酷さと区別がつかない。
それでも、言えない誰かの真意を私はもう一度信じたいのか、信じたくないのか。
答えは出ないまま、改札の向こうに灯りが滲んだ。
翌朝、デスクに置かれた回覧メモの端に、短い付箋が貼られていた。
《昨日のログ、メーカー報告。原因はケーブルの接触不良。個体交換済》
付箋の端に、細い万年筆の線で、さらに小さく。
《——一件落着。》
その手書きの二文字が、私の胸で音もなく砕けた刃をひとつ、溶かしていく。
“言わない”人から届いた、ようやくの、言葉。
私は指先で付箋をそっと撫で、深く息を吸った。
雨は止んで、窓の外は薄い雲の白さを取り戻している。
まだ誤解は解けていない。指輪の意味も、志乃という名前の輪郭も、私には曖昧なまま。
それでも、今日の私は、昨日より少しだけ前を向ける——そんな気がした。
私は一足先に入り、プロジェクターとケーブルを自分の手で何度もつなぎ直す。電源ランプの小さな光が点るたび、胸の奥に昨日の失敗の残像が疼いた。
扉が開く音。神宮寺が入ってきた。ネイビーのスーツに、淡いストライプのシャツ。目の下に薄く疲れの影がある。
「おはよう」
「おはようございます」
昨日より少しだけ低い声。沈黙が間に落ちる前に、私は慌てて言葉を継いだ。
「接続は事前に三回確認済みです。予備のケーブルも用意しました。スライドはローカルとクラウドに二重保存して——」
「わかった。ありがとう」
短く頷き、彼はPCを開いた。打鍵の音が速い。目が資料を走る速度に合わせて、私の喉が渇く。
「……昨日はすみませんでした」
勇気をかき集めて、ようやく出した声は小さかった。
彼は少しだけ手を止め、こちらを見た。
「原因は機材側だ。君のせいじゃない」
「でも——」
「ただ、外では言わない。言い訳に聞こえる。だから僕が先に事実を押さえる」
外では言わない。
それは私を守るための言葉のはずなのに、胸のどこかがきゅっと縮む。
——どうして、言ってくれないの。どうして、その場で「彼女のせいじゃない」と言い切ってくれなかったの。
言えない善意は、形がないぶん鋭い。
九時。千草さんと奏多、数名のメンバーが入り、再確認のミーティングが始まった。
チェックリストに沿って一つずつ潰していく間、神宮寺は穏やかに指示を出し、詰めるべきピースを冷静に差し込んでいく。
終盤、片瀬さんが資料を配りながら、さらりと口にした。
「昨日の件、本部長には“原因不明”で伝えておきました。余計な印象を与えるのは避けたいので」
原因不明——その言い回しの曖昧さに、私の胸がまた波立つ。
神宮寺がすかさず補った。
「機材ログは回収済み。週明けにメーカー報告が出る。社外への説明はそこで確定させる」
きれいな正論。けれど“いまの私”には届かない。
会議が終わり、全員が散ったあと、私はホワイトボードを消していた。
背後で椅子の脚が床を擦る音。振り返ると、神宮寺が立っていた。
「香山」
「はい」
「昨日の場でフォローしなかったのは、君を責めていないからだ。個人の問題にすると、そのまま君にラベルが貼られる。事故はシステムの問題として処理する」
——正しさは、時々残酷だ。
私は頷くことしかできない。
「……ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いじゃない。僕の仕事だ」
柔らかく突き放す言い方。心地よくない距離感。
言葉の端に、言わない何かが残る。その何かを、私は“婚約者”というラベルで埋めてしまう。
昼少し前、私はエレベーターホールで役員秘書に呼び止められた。
「神宮寺様をお探しですか? 本社会議室にいらっしゃいますが」
「いえ、資料を届けるだけなので……」
廊下の奥から話し声が近づく。
片瀬さんと、見慣れない上品な女性。歳は三十代半ばだろうか、白いワンピースに短いジャケット。
「——志乃様、こちらへ。神宮寺が間もなく戻ります」
志乃。神宮寺の——
名前の一致が胸の奥を冷たく撫でた瞬間、ガラス越しに彼の背中が見えた。
女性は微笑みながら一歩近づき、自然な所作で彼の左腕に触れる。
「遥斗、時間大丈夫?」
「……母さん、ここでは」
——母?
足が止まり、次の瞬間、血の気が引く。
母親、志乃。落ち着いた佇まいと、息子を気遣う柔らかな声。
それでも、私の耳は“触れた腕”“呼び方の親密さ”ばかりを拾ってしまう。
都合よく、恋人に見える角度だけを。
片瀬さんが気づき、私に目礼した。
「香山さん、資料でしたらお預かりします」
「あ……お願いします」
ファイルを渡し、一礼して背を向ける。
振り返らない。振り返れない。
心の中で「母」という単語を繰り返しながら、映像は別の意味に書き換わっていく。
——“婚約者の家族”。
頭では否定できるのに、体は先に痛みを覚えていた。
午後、内線で呼ばれ、私は急ぎの修正を神宮寺のデスクへ持っていった。
彼は電話の相手に静かに応対していた。「はい、志乃です」「ええ、今は——」
受話器越しの名字が、現実をもう一度突きつける。
電話を切った彼がこちらを見る。
「さっきの件、助かった」
「いえ」
いつも通りの会話しかできない。
彼がペンを置きかけ、ふと何か言いかけた。
「香山——」
そこへ、別の社員が駆け込んでくる。
「神宮寺さん! 本部長がお呼びです。例の数値の件、直接確認したいと」
「すぐ行く」
彼は一度だけ私を見て、小さく頷き、早足で去った。
胸の中に、言われなかった言葉がまた一つ、刃のように残る。
夕方、雨が降り出した。
窓の外の街路樹が濡れ、信号の赤が滲む。
私は帰り支度をしながら、机の引き出しから薄いブルーの封筒を取り出した。
卒業式の日に渡せなかった色に、今も指先が迷う。
——いまも、私は何も渡せないままなのかもしれない。
エレベーターで一階へ降りると、ロビーに神宮寺の姿があった。
志乃と呼ばれた女性はもういない。代わりに、別部署の二人が彼の周りに集まり、明日の打ち合わせの確認をしている。
彼の視線がふと私を掠め、すぐに外れる。
すれ違う距離。
その瞬間、彼の左手の指輪に雨の光が反射した。濡れた夜の光が小さな輪に滲む。
私が視線を落とす前に、彼がかすかに口を開いた。
「——気をつけて帰れ」
それだけ。
私は頷き、傘を開いた。雨粒が布を叩き、音が近くなる。
駅へ向かう途中、背後から駆け足の音がした。
「美桜!」
奏多だ。少し濡れた前髪を手で払って、息を整える。
「今夜、時間ある? 飯でも行かない?」
神宮寺の指輪の光、志乃の声、言われなかったフォロー。
全部が胸の中で渦を巻き、私はうなずいた。
「……うん。行こ」
雨の匂いが、また少し濃くなった。
駅ビルの上の小さな定食屋で、温かい湯気が眼鏡を曇らせる。
奏多はいつもの調子で、私が笑える話題を選んでくれる。
食後、アイスティーの氷が鳴ったとき、彼がまっすぐに言った。
「俺さ、美桜に言ってないことがある」
胸がぎゅっと縮む。
「高校のときから、お前のこと、ずっと見てた。俺が“味方”って言い続けてるのは、ただの同期だからじゃない。……俺は、お前が好きだ」
言葉はまっすぐで、優しくて、誠実だった。
私の中の空洞に、温度がそっと置かれる感覚。
でも、その温度は別の形に似ていて、私はゆっくりと視線を落とす。
「……ありがとう」
それ以上の言葉が続かない私を、奏多は責めなかった。
「急がなくていい。俺は待つ。俺にも、言ってないことがあったから——ちゃんと伝えたかっただけ」
店を出ると、雨は小降りになっていた。
駅の改札までの数十歩、私は自分の足音だけを聞く。
言ってくれた人と、言わない人。
守るための沈黙は、時に残酷さと区別がつかない。
それでも、言えない誰かの真意を私はもう一度信じたいのか、信じたくないのか。
答えは出ないまま、改札の向こうに灯りが滲んだ。
翌朝、デスクに置かれた回覧メモの端に、短い付箋が貼られていた。
《昨日のログ、メーカー報告。原因はケーブルの接触不良。個体交換済》
付箋の端に、細い万年筆の線で、さらに小さく。
《——一件落着。》
その手書きの二文字が、私の胸で音もなく砕けた刃をひとつ、溶かしていく。
“言わない”人から届いた、ようやくの、言葉。
私は指先で付箋をそっと撫で、深く息を吸った。
雨は止んで、窓の外は薄い雲の白さを取り戻している。
まだ誤解は解けていない。指輪の意味も、志乃という名前の輪郭も、私には曖昧なまま。
それでも、今日の私は、昨日より少しだけ前を向ける——そんな気がした。