「雨の交差点で、君をもう一度」

第九章「置き去りの卒業式」


 土曜のオフィスは、普段よりも空気がやわらかい。
 蛍光灯の明かりは半分しか点いておらず、プリンターの低い唸りと、掃除機の音が遠くで途切れ途切れに響く。出勤しているのは数人だけで、各々が小さな島のように黙々と画面に向かっていた。

 私は月曜納品の原稿を整えながら、ノイズキャンセリングのイヤホンを耳に差し込む。音楽は流さない。ただ、外側のざわめきが直接胸の内側を揺らさないための布団のようなもの。
 画面の端に開いたチェックリストに、打鍵の音で小さなチェックが増えていく。——「感情の置き場所」は最後に。神宮寺に言われたフレーズが、いまだに私のテキストの軸に居座っていた。

 エレベーターホールが静かに開く気配がした。視線を上げると、ネイビーのカジュアルジャケットに白いTシャツ、少しラフな装いの神宮寺が入ってくる。
 スーツ姿のきっちり感が薄れている分、背の高さや骨ばった手の形が際立つ。休日出勤の人間にしか出ない独特の空気が彼にも纏わりついて、胸のどこかがざわついた。

「休日にすみません」
 立ち上がって会釈すると、彼は小さく首を振る。
「こっちこそ。午後から本社で会議がある。その前に、詰めておきたいところがあって」
「資料は共有フォルダに上げてあります」
「見た。……ありがとう」

 それだけで、会話が終わる気がした。けれど彼は私の島の前で立ち止まり、いつもより少しだけ考えるような顔をする。
「香山」
「はい」
「昨日、ロビーで母と会ったのを見ただろう」
 母。
 昨日の、白いジャケットの女性の佇まいと、彼の左腕にそっと添えられた細い指先が、ぱち、と記憶の中で点灯する。
「……はい」
「説明しなかったのは、仕事の場で私事を混ぜたくなかったからだ。——誤解させたなら、悪かった」
 “悪かった”。その二音が、骨の奥で鳴った。
 謝られるほどの立場じゃない、と口に出そうとして、声は喉の途中でほどけた。婚約者、という噂が頭の隅でまだ濡れている。母という語の上に、勝手に別のラベルを貼り付けた自分の恥ずかしさが、じわりと広がった。

「……いえ。私のほうこそ、余計な想像を」
 そう言うと、彼はふっと目元だけ笑った。いつか雨の下で見た、わずかな温度。
「それと——この前のプレゼンで、君の声を聞いたときに思い出したことがある」
「思い出したこと?」
「高校の、卒業式の朝。教室の外で、俺の名前を呼ぶ声がした」
 心臓が、机の縁にぶつかったみたいに跳ねる。
「廊下が騒がしくて、よく聞こえなかった。けど——印象だけは妙に残ってる。あれは……君に似ていた」
 空調の風が頬を撫で、肌の表面だけが急に冷えた。七年前の朝の温度が、ひとつずつ戻ってくる。

 黒板の白い粉。花の匂い。胸元の黄いろいリボン。
 私は机の中の薄いブルーの封筒に、爪の先で何度も触れていた。書き直して、また書き直して、結局たった三行にしたためた“好き”。——あの封筒をポケットに押し込み、廊下のざわめきの向こうに立つ背の高い人影を探していた。

 扉のガラス越しに見えた横顔は、友人たちに囲まれて、笑って、時々真剣な目になって、そしてすぐに誰かが肩を叩いた。
 私は、呼んだ。小さな声だった。心臓の音に負けないように、もう一度呼んだ。
 ——神宮寺くん。
 その瞬間、太鼓の音のような歓声と、体育館から流れ込むブラスバンドの音が廊下の空気を押し上げて、私の呼吸は逆流した。
 「あの、私——」
 音楽と笑い声の波に飲まれて、口の形だけが宙に溶けた。

「結局、聞き取れなくて。そのまま……卒業した」
 神宮寺の声は、今の会議室ではなく、あのときの廊下の空気の温度で響いた。
「もしあの時、ちゃんと聞こえていたら……と思うことが、時々ある」
 私は首を小さく横に振る。
「聞かれてたら、たぶん困った顔をさせてました」
「どうして」
「だって、あのときの私は、言葉の順番をまちがえるタイプでしたから」
 掠れた冗談。彼は一拍遅れて「そうか」と笑い、すぐ表情をもとに戻す。

「——これから本社だ。戻ったら、データの確認を」
「はい」
 いつもの、行ってきます、と同じ調子。けれど、背中が遠ざかるまでの数歩が、やけに重く見えた。
 私は彼の姿がエレベーターの角で消えるのを見届けてから、机の引き出しを開ける。
 薄いブルーの封筒。
 高校の卒業式の朝、渡せなかったそれと同じ色の、今も中身のない封筒。わざと空のまま置いておくことで、いつでも「書ける」ふりができた。七年間、そのふりを続けている。

 画面に視線を戻そうとして、指先が止まる。
 “置き去り”。
 ページの見出しに、その言葉が滑り込んだ。キャンペーンの主題でも、顧客のペルソナでもない。自分のためのタグ。
 置き去りの手紙、置き去りの声、置き去りの卒業式。
 窓の外で、薄い雲が流れ、陽が一瞬だけ顔を出した。画面の上に角度の浅い光が差して、キーボードの埃が小さく煌めく。

 昼前、千草さんが紙コップを片手に現れた。
「生きてる?」
「なんとか」
「神宮寺さん、さっき出たよね。顔が“休日に働く顔”だった」
「そんな顔あるんですか」
「あるの。あと、香山さんは“何かを思い出した顔”してる」
 図星に、息が詰まる。
「昔話?」
「……卒業式のことを、少し」
「置きっぱなしの話は、いつかつまずくよ。——あ、悪い。意味深になった」
 千草さんは笑い、紙コップを置いた。「糖分、大事」。カップの蓋には、チョコラテの文字。
「ありがとう、先輩」
「どういたしまして。午後、片瀬さんが戻ったら、来週の段取り確認するって。君の原稿、読みやすいから助かるってさ」
 胸の中の濁った水に、一滴だけ温かいものが混ざる。

 午後、私は作業の合間に学校のサイトを開いた。
 「同窓会」「施設開放」「図書室一般利用」——見出しをスクロールさせる指が、そこで止まる。
 土曜の午後は地域に開放、在校生と卒業生は学生証で入館可。
 学生証……引き出しのどこかに入れてあったはず。私はペン立ての奥を探り、古い財布のカードポケットにそれを見つけた。角が少し丸くなって、写真の私は幼い。
 胸のあたりに、静かな波が立つ。
 図書室。——そうだ、あの日、私は最後の最後に図書室の前まで行ったのだった。卒業アルバムの引き渡しに向かう列の途中で、ふと覗いた扉の向こうから紙の匂いがした。
 “あとで”。
 その一言が、私の高校時代をたたむ魔法の言葉だった。宿題も、手紙も、気持ちも、すべて“あとで”。
 あとで、の箱は、いつの間にか開かないまま埃をかぶった。

 マウスを置く。椅子の背もたれに体重を預け、天井の角を見る。四角い天板を斜めに横切る空調ダクトが、卒業式の体育館の梁と重なる。
 壇上の校長の声は遠く、友人の袖口の白いレースは近い。花束の色。紙袋の持ち手が指に食い込む感触。
 ——終わりは、いつだって“いま”じゃなく、少しあとにやって来る。
 手を振る別れ道で、泣く人の背中を、私はいつも遠くから見ていた。近づけば、自分の涙もこぼれるから。泣くのは苦手だった。

 チャットの通知が鳴る。
《星和HD:神宮寺》
《本社会議、前倒しで終わる。夕方、戻る。例の三案、比較表を付けておいてほしい》
《了解しました。比較軸は「情緒」「機能」「再生回数想定」で作ります》
《+「言い換え余地」。君の言葉で噛み直す余白を残しておく》
 “君の言葉”。
 その四文字が画面に浮かぶ間、私はしばらく指を止めた。
 言い換えられる言葉。噛み直せる文章。——噛み直せなかったのは、あの三行。好き、の三文字だった。

 夕方、作業を一区切りつけて会社を出ると、空気は驚くほど澄んでいた。湿度が少し落ち、風が髪を軽く揺らす。
 駅の反対側行きのバス停に、学校行きの便名が小さく表示されている。
 私は立ち止まり、時刻表を指でなぞる。一本乗り過ごしても、まだ間に合う。
 内ポケットの学生証が、布越しに平たい存在感を主張する。

 ——行こう。
 体が決めてしまったあとで、心が慌てて追いかける。
 バスに揺られて三十分。窓の外で黒くなり始めた街の輪郭が、みるみるうちに低くなって、やがて学校の周辺に続く並木道の緑に変わった。
 降車ボタンを押す。車内の小さな電子音。
 土曜の夕方の正門は半分だけ開いていて、守衛さんが一人、新聞をめくっている。学生証を見せると、特に問われることもなく、入館票と「閉館は十八時」の注意書きを渡された。

 校舎の廊下は、ワックスの匂いがした。
 スニーカーのゴムが床に触れる音が、昔の白い上履きの擦れる気配と重なる。
 私は反射的に、三年○組の教室の前まで歩いていた。窓越しに見える黒板は、今は何も書かれていない。昼休みに誰かが描いたらしい花の落書きだけが、角のほうに小さく残っていた。
 手を伸ばして扉に触れる。冷たい。指先に、あの日の震えがよみがえる。
 ——“神宮寺くん”。
 扉の向こうにいた人は、もうここにはいない。それでも、空気の中に残っている気がした。輪郭のない気配が、こちらを振り向きそうな一秒の手前で止まっている。

 図書室は、その先の角を曲がって、階段を一段上って、廊下を半分戻った先。
 扉の上の金文字は、昔よりも少し剥げていた。
 中に入ると、紙とインクと陽だまりの匂いがする。外の光が西の窓から斜めに差し込み、書架の影が床に長く伸びていた。受付のカウンターには、司書の女性が一人。
「卒業生の方?」
「はい。学生証、あります」
「どうぞ。閉館まで三十分ほどです」
 手元の時計を見て、私は頷く。
 三十分。——“あとで”の箱の蓋を、ひとまず開けるのには、十分なのかもしれない。

 私は書架の間をゆっくり歩く。分類番号が親指の腹を擦り、背表紙のフォントの違いが、昔の癖を思い出させる。
 受験のときに借りた参考書。詩集。写真集。
 そして——窓際の、文学全集の棚。
 卒業式の前日、私は確か、ここで封筒を開きかけた。机の上に紙を置いて、名前の最初の一字を書いて、心臓が痛くなって、慌ててやめた。
 そのとき、風に煽られてページがぱらりとめくれ、栞のひもが机に落ちた。あの細いひもの先の結び目は、今も同じだろうか。
 指先がひもの感触を探す。床に落ちた記憶と、机の角のざらつき。
 ——あの本、まだあるのかな。

 受付の時計の針が、閉館十分前を指す。
 私は書架の番号を目で追い、背表紙の列の中に、探していた題名を見つけた。軽く息を飲む。
 手を伸ばして引き出すと、紙の乾いた匂いがした。
 表紙を、そっと開く。
 ページの余白は、何も言わない。名前の一字も、濃い鉛筆の線も、そこにはなかった。
 拍子抜けする。少し、笑う。——都合よく過去が待っていてくれるはずがない。
 私は本を元に戻し、窓際の机に手を置いた。
 西日が指の関節を照らす。影が長く伸びる。長い影は、私の中の“あとで”と同じ形をしていた。

 閉館のチャイムが鳴る。
 私は司書に会釈をして図書室を出た。廊下の音が少し濃くなる。
 帰り道、靴紐を結び直そうとしゃがんだとき、掲示板の下の目立たないラックに「回収物」と書かれた段ボール箱が置かれているのが目に入った。
 古い冊子、アンケート、忘れ物のノート。
 ——探すなら、こういうところなのかもしれない。
 手を伸ばしかけて、やめる。時間切れ。守衛室に寄って退出印を押してもらわなければならない。
 箱の上には簡単な貼り紙があった。「一週間の保管後、廃棄」
 今日の印字。
 胸の中の針が、小さく跳ねた。

 校門を出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。並木の葉の擦れる音が、帯のように続く。
 私はポケットの中の学生証を親指で撫でる。角の丸いプラスチックの感触。
 ——また来よう。ちゃんと、箱の中身を見よう。
 置き去りの場所に、もう一度、名前を持って行こう。

 帰りのバスの窓に、街の灯りがひとつずつ点いていく。
 スマホが震えた。
《星和HD:神宮寺》
《いま戻った。三案、見た。比較表、良い。——ひとつ、昔話の質問》
 “昔話”。
 電車の網棚に置き去りにしたみたいな単語が、掌の上に落ちてくる。
 私は返事の欄に指を置き、少しだけ考える。
《了解。明日、少しだけ時間いいですか》
 送信。すぐに既読がつき、《いいよ》の二文字が返ってくる。
 ガラスに映る自分の顔は、あの日の私より少しだけ大人で、少しだけ幼い。
 封筒の色は変わらない。けれど、中に入れる言葉は、七年前のそれとは違うかもしれない。
 あとでではなく、いまを書けるかどうか。
 揺れる車内で、私は胸の奥の小さな机に座り直した。

 部屋に戻ると、引き出しからブルーの封筒を取り出した。
 机に置くと、それは思っていたよりも軽かった。
 封を切る必要はない。空だから。
 私は新しい白い便箋を一枚出し、ペン先を落とす。
 最初の一字が、紙の上で震える。
 ——“神宮寺くん”。
 呼び方が、昔に戻る。けれど、そこから先は七年前と違う道を選びたい。
 私は書いた。消した。書き直した。
 結局、たったの一行だけが残った。
 あのとき、呼んだのは私です。
 それだけのことが、七年ぶんの私を少しだけ前へ押し出した。

 窓を打つ音が、さっと強くなる。夜の小雨。
 雨の匂いがする。卒業式の日の体育館の匂いに、ほんの少し近い。
 私は便箋を封筒に入れ、封はしなかった。
 “あとで”ではなく、“明日”。
 そう書いた付箋を、小さな青い口に貼る。
 置き去りの卒業式が、いま、やっと骨の中で終わり始める音がした。
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