「雨の交差点で、君をもう一度」
第十七章「誤解の最後尾」
告白を交わした翌週、社内の空気は相変わらず慌ただしかった。
大型案件の最終ステップ——テレビCMとデジタル施策の同時ローンチ。そのための承認フローは複雑で、会議室のランプは一日中「使用中」の赤を灯していた。
私と遥斗は、仕事ではこれまで通りに距離を保つことを決めた。
メッセージの語尾、会話の呼吸、デスクの並び。
小さな均衡を崩さないように並走しながら、それでも時々、視線が同じところで止まり、同じ用語に同じタイミングで反応して、胸の奥がふっと温かくなる瞬間がある。
その温度と同時に、ひとつだけ解け残った結び目が心のどこかにあった。
あの指輪の噂はほぼ消えたものの、「本社の重役の娘さん」との昔馴染みという尾ひれが、社内のどこかにまだ漂っている。
噂は目に見えないまま、靴底に付くほこりみたいに、気づけばまとわりつく。
火曜の午後、内線が鳴った。
「香山さん、本社会議室にお客様。神宮寺様のお母様だそうです」
受話器を握った指がわずかに強ばる。
志乃——。
慎重に息を整えてから会議室へ向かうと、彼女は柔らかな色のワンピースに短いジャケット、以前ロビーで見かけたときと同じ上品な佇まいで、静かに立っていた。
「先日は失礼しました。——お時間、少しだけいただける?」
「はい」
案内された小部屋で向かい合うと、志乃は湯気の立つお茶に目を落としたまま、穏やかに口を開いた。
「この仕事は、厳しいでしょう。特に、遥斗の近くにいるあなたは」
緊張が喉を狭くする。
「……仕事ですから」
「ええ。だからこそ、あなたに“お願い”したくて来ました」
お願い。
胸の内で、薄い膜が一枚、音もなく張られる。
「噂は、濡れた紙のようなもの。放っておけば破れて乾くこともあるけれど、手でちぎれることもある。あなたが傷つく前に、距離を——」
「……距離、ですか」
「母親としては、ね。息子が誰かと噂になるのは、いつだって相手の女性のほうが不利。あなたが有能で真面目だという話は耳にしています。でも、遥斗は——」
扉が軽く叩かれ、志乃の言葉がそこで切れた。
入ってきたのは遥斗だった。
「母さん、その話はここで終わりにしてくれ」
静かな声。けれど、芯が固い。
「……私はお願いを——」
「お願いなら僕に。香山に直接は、もうやめてくれ」
短い沈黙ののち、志乃は小さく息をつき、立ち上がった。
「失礼しました、香山さん。——息子は昔から、決めたことは曲げない子で」
皮肉にも聞こえる一言を残し、彼女は去った。
扉が閉まる音が乾いて響く。
私は胸に溜まった空気を、ゆっくりと吐き出した。
「……ごめん」
「謝らないでください。きっと、心配なんです」
「それでも、線は引く。仕事の線と、家族の線。——僕の責任だ」
彼がそう言い切った直後だった。社内チャットに緊急の通知が踊る。
《至急確認:今朝クライアント共有の“第3版動画ラフ”が外部に流出》
空気が、一気に変わった。
会議室Aに集められたメンバーの顔は緊張に固まっている。
拡散していたのはSNSの匿名アカウントのスクリーンショットで、まだ社外には公開していないはずの絵コンテの一部が切り取られていた。
時間は午前9:14。——当日の回覧は8:50に始まり、9:30に星和HD側へ正式送付の予定だった。
「まず、直近でアクセスしたユーザーのログを洗う」
遥斗の声が落ち着いた低音でテーブルを走る。
「同時に、社外リークの線を切らずに並行で確認。感情ではなく、事実順に積む」
片瀬がすぐに応じる。「社内ネットワークの監査チームに回します」
千草先輩が私の肩を軽く叩いた。「香山は回覧履歴の確認。誰に、いつ、どの版が渡ったか」
PCに向かって指を走らせる。回覧ログ、DL時刻、IP帯。
——9:05、外出先Wi-Fiからのアクセスがひとつ。端末名は「mio-kayama」。
血の気が引いた。
私の端末名。外出先……? 9:05、私は社内にいたはず——。
次の瞬間、背後からざわめきが立った。
「端末名、香山さんの……?」
視線が集まる体感温度。掌の汗が、キーボードの縁を湿らす。
「確認する」
遥斗が私の背に回り、画面を覗き込む。
「端末名が同じでも、同一端末とは限らない。MACアドレスとログイン資格情報を切り分ける」
彼は即座に監査チームへ追加項目を依頼し、同時に私へ短く言う。
「香山、席のPCには触れないで。ログの保全を優先する」
「……はい」
会議室の空気が重く沈む中、十分後、監査チームから一次報告が届いた。
《9:05アクセス端末:MACアドレス一致せず/資格情報:一時的トークンを使用/発行元:古い共有リンク》
千草先輩が眉をひそめる。「古い共有リンク?」
私ははっとする。
「——前任の担当が使っていた共用リンクです。更新前のフォルダ階層に“mio-kayama”のテンプレートが残ってて、配布用に名前をつけたまま……」
片瀬が追加で検索をかける。「外部協力会社の下請けのさらに協力会社に、そのリンクが残ってる可能性が……あ、ヒット。昨年のスレッドに引用」
遥斗が即断。「法務と連携。リンクを即時死活化。DMCA相当の申立てを準備。——そして、誰も個人名を口にしない。今は構造の問題だ」
“個人名を口にしない”。
昨日の「システムの問題として扱う」を、別の形で聞いた。
胸の真ん中に、緊張とは別の熱が灯る。
バタバタと処理が進む間にも、噂は先に走る。廊下の向こうで誰かがひそひそと私の名前を出し、すぐに消す。
言葉の影は、雨上がりに残る水たまりのように足元に広がった。
——これが、最後の誤解であればいい。
祈るような気持ちで、私はログの一覧にさらに目を凝らす。
二時間後、監査チームから確定の報告。
《流出元:外部協力会社Bの下請け先C。古い共有リンクを経由した閲覧→スクリーンショット。社内端末ではない/端末名はテンプレ由来》
会議室にわずかな安堵が広がる。
しかし、拡散の芽は完全には摘めない。対処文案を作る必要がある。
「一次声明は、事実のみ。該当画像は旧案であり、現行案とは異なる。法務対応中——で締める」
遥斗がそう言い、私に視線を向ける。
「香山、文案を書くのは君だ。“情緒の置き場所”を、誤魔化しではなく、安心に置く」
喉の奥で、言葉がすっと一列に並ぶ音がした。
「……やります」
私はキーボードに向かい、一息に書いた。
「事実の順序」「現行への影響なし」「再発防止の具体」を三点で示し、最後に短く、読者の不安に触れる一文を置く。
『本件は、作品づくりの途中で生まれた“古いメモ”が、誤って流れたものです。私たちは最終稿で勝負します。』
打ち終えた瞬間、胸の深いところがふっと軽くなった。
——七年前、言えなかった一行を、いま別の形で書き直している。
文案を読み終えた遥斗が、静かに頷く。
「いい。背伸びも言い訳もない。これでいこう」
そのときだった。会議室の扉が開き、志乃が小走りに入ってきた。同行の秘書が息を上げている。
「遥斗、大丈夫? “香山さんの端末から”って——」
言いかけた志乃の声に、彼はぴたりと向き直る。
「母さん。事実は確認済みだ。香山は関係ない」
言葉は静かで、揺れない。
志乃は目を瞬かせ、それからゆっくりと私のほうを見た。
「……軽率だったわ。ごめんなさい」
「いえ」
拒むでも、受け取るでもない、素直な返事が自分の口から出たのがわかった。
最後の棘が、音もなく抜け落ちた気がした。
午後、対処は滞りなく進み、拡散は小規模のうちに収束した。
夕方、空は薄い灰色から水色へと戻り、窓の向こうの雲の切れ間から、きらりと細い光が差した。
席に戻ると、デスクの上に小さな付箋が一枚。
《ロビー、5分——H》
イニシャルが可笑しくて、私は笑いを飲み込みながら立ち上がる。
ロビーは夕方の人の流れが落ち着き、ガラスの外に街路樹の影が長く伸びていた。
柱の陰で待っていた遥斗は、私を見るとわずかに肩の力を抜いた。
「おつかれ」
「おつかれさまです」
敬語が混じる。思わず二人とも笑う。
「今日は……ありがとう」
「私こそ。——“個人名を口にしない”、助かりました」
「それは僕の流儀でもあるけど」
彼は少し間を置き、言葉を足した。
「昔、守れなかった誰かがいた。ラベルを貼られて、実力と関係ない噂に潰されそうになって……そのとき、僕は正しさの盾を出すのが遅かった。だから、もう遅れない」
初めて聞く話だった。胸の奥で、七年前の“置き去り”と呼応する音がする。
「……ありがとう」
ふいに、彼が左手の指輪を外した。
何度も光の話題になった小さな輪。
「これ、母の誕生日の記念だ。仕事中に身につけるのは、今日で最後にする。必要以上の誤解を生むなら、それは僕の選択ミスだから」
驚いて目を上げると、彼は淡く笑った。
「別に捨てるわけじゃない。プライベートでつける。ただ——現場で君の足を引っぱるものなら外す」
胸のどこかが、静かにほどけた。
「……ありがとう」
「礼を言われる筋合いじゃない。僕の仕事だ」
定型句のはずなのに、今日は不思議と温かい。
「そういえば」
遥斗が少し照れたように視線を逸らす。
「母さん、さっき君に謝った?」
「はい」
「よかった。怖かったろ」
「……正直、少し。でも、もう大丈夫です」
「ならいい」
ガラスの外、横断歩道の白が雨上がりの路面に淡く滲む。
プロローグの夜に見た風景が、鮮やかな現在形に重なる。
誤解の最後尾に、やっとたどり着いたのだと思った。
「帰り、送る」
「いえ、大丈夫。駅まで近いので」
「じゃあ、途中まで」
並んで歩き出す。自動ドアが開き、少し冷たい外気が頬を撫でる。
信号待ち。
赤い光が、足元の白線をくっきりと浮かび上がらせる。
ふいに、遥斗が傘を私の頭上にそっと差し出した。
雲の切れ間から落ちてくる細かな霧雨が、布にやわらかく弾かれる。
「濡れますよ」
初めて交わした言葉と同じ響き。
私は笑って、彼の腕に軽く指を添えた。
「もう、うまく濡れないから大丈夫」
信号が青に変わる。
人の流れに合わせて、二人の歩幅が自然に重なる。
誤解は、確かに後ろに残った。
けれど、物語はまだ続いていく。次に揺れるのは仕事の山か、心の小さな段差か。
どちらにせよ——今度は、並んで越えていける。
歩道の先に、夕暮れの薄い金色が広がっていた。
大型案件の最終ステップ——テレビCMとデジタル施策の同時ローンチ。そのための承認フローは複雑で、会議室のランプは一日中「使用中」の赤を灯していた。
私と遥斗は、仕事ではこれまで通りに距離を保つことを決めた。
メッセージの語尾、会話の呼吸、デスクの並び。
小さな均衡を崩さないように並走しながら、それでも時々、視線が同じところで止まり、同じ用語に同じタイミングで反応して、胸の奥がふっと温かくなる瞬間がある。
その温度と同時に、ひとつだけ解け残った結び目が心のどこかにあった。
あの指輪の噂はほぼ消えたものの、「本社の重役の娘さん」との昔馴染みという尾ひれが、社内のどこかにまだ漂っている。
噂は目に見えないまま、靴底に付くほこりみたいに、気づけばまとわりつく。
火曜の午後、内線が鳴った。
「香山さん、本社会議室にお客様。神宮寺様のお母様だそうです」
受話器を握った指がわずかに強ばる。
志乃——。
慎重に息を整えてから会議室へ向かうと、彼女は柔らかな色のワンピースに短いジャケット、以前ロビーで見かけたときと同じ上品な佇まいで、静かに立っていた。
「先日は失礼しました。——お時間、少しだけいただける?」
「はい」
案内された小部屋で向かい合うと、志乃は湯気の立つお茶に目を落としたまま、穏やかに口を開いた。
「この仕事は、厳しいでしょう。特に、遥斗の近くにいるあなたは」
緊張が喉を狭くする。
「……仕事ですから」
「ええ。だからこそ、あなたに“お願い”したくて来ました」
お願い。
胸の内で、薄い膜が一枚、音もなく張られる。
「噂は、濡れた紙のようなもの。放っておけば破れて乾くこともあるけれど、手でちぎれることもある。あなたが傷つく前に、距離を——」
「……距離、ですか」
「母親としては、ね。息子が誰かと噂になるのは、いつだって相手の女性のほうが不利。あなたが有能で真面目だという話は耳にしています。でも、遥斗は——」
扉が軽く叩かれ、志乃の言葉がそこで切れた。
入ってきたのは遥斗だった。
「母さん、その話はここで終わりにしてくれ」
静かな声。けれど、芯が固い。
「……私はお願いを——」
「お願いなら僕に。香山に直接は、もうやめてくれ」
短い沈黙ののち、志乃は小さく息をつき、立ち上がった。
「失礼しました、香山さん。——息子は昔から、決めたことは曲げない子で」
皮肉にも聞こえる一言を残し、彼女は去った。
扉が閉まる音が乾いて響く。
私は胸に溜まった空気を、ゆっくりと吐き出した。
「……ごめん」
「謝らないでください。きっと、心配なんです」
「それでも、線は引く。仕事の線と、家族の線。——僕の責任だ」
彼がそう言い切った直後だった。社内チャットに緊急の通知が踊る。
《至急確認:今朝クライアント共有の“第3版動画ラフ”が外部に流出》
空気が、一気に変わった。
会議室Aに集められたメンバーの顔は緊張に固まっている。
拡散していたのはSNSの匿名アカウントのスクリーンショットで、まだ社外には公開していないはずの絵コンテの一部が切り取られていた。
時間は午前9:14。——当日の回覧は8:50に始まり、9:30に星和HD側へ正式送付の予定だった。
「まず、直近でアクセスしたユーザーのログを洗う」
遥斗の声が落ち着いた低音でテーブルを走る。
「同時に、社外リークの線を切らずに並行で確認。感情ではなく、事実順に積む」
片瀬がすぐに応じる。「社内ネットワークの監査チームに回します」
千草先輩が私の肩を軽く叩いた。「香山は回覧履歴の確認。誰に、いつ、どの版が渡ったか」
PCに向かって指を走らせる。回覧ログ、DL時刻、IP帯。
——9:05、外出先Wi-Fiからのアクセスがひとつ。端末名は「mio-kayama」。
血の気が引いた。
私の端末名。外出先……? 9:05、私は社内にいたはず——。
次の瞬間、背後からざわめきが立った。
「端末名、香山さんの……?」
視線が集まる体感温度。掌の汗が、キーボードの縁を湿らす。
「確認する」
遥斗が私の背に回り、画面を覗き込む。
「端末名が同じでも、同一端末とは限らない。MACアドレスとログイン資格情報を切り分ける」
彼は即座に監査チームへ追加項目を依頼し、同時に私へ短く言う。
「香山、席のPCには触れないで。ログの保全を優先する」
「……はい」
会議室の空気が重く沈む中、十分後、監査チームから一次報告が届いた。
《9:05アクセス端末:MACアドレス一致せず/資格情報:一時的トークンを使用/発行元:古い共有リンク》
千草先輩が眉をひそめる。「古い共有リンク?」
私ははっとする。
「——前任の担当が使っていた共用リンクです。更新前のフォルダ階層に“mio-kayama”のテンプレートが残ってて、配布用に名前をつけたまま……」
片瀬が追加で検索をかける。「外部協力会社の下請けのさらに協力会社に、そのリンクが残ってる可能性が……あ、ヒット。昨年のスレッドに引用」
遥斗が即断。「法務と連携。リンクを即時死活化。DMCA相当の申立てを準備。——そして、誰も個人名を口にしない。今は構造の問題だ」
“個人名を口にしない”。
昨日の「システムの問題として扱う」を、別の形で聞いた。
胸の真ん中に、緊張とは別の熱が灯る。
バタバタと処理が進む間にも、噂は先に走る。廊下の向こうで誰かがひそひそと私の名前を出し、すぐに消す。
言葉の影は、雨上がりに残る水たまりのように足元に広がった。
——これが、最後の誤解であればいい。
祈るような気持ちで、私はログの一覧にさらに目を凝らす。
二時間後、監査チームから確定の報告。
《流出元:外部協力会社Bの下請け先C。古い共有リンクを経由した閲覧→スクリーンショット。社内端末ではない/端末名はテンプレ由来》
会議室にわずかな安堵が広がる。
しかし、拡散の芽は完全には摘めない。対処文案を作る必要がある。
「一次声明は、事実のみ。該当画像は旧案であり、現行案とは異なる。法務対応中——で締める」
遥斗がそう言い、私に視線を向ける。
「香山、文案を書くのは君だ。“情緒の置き場所”を、誤魔化しではなく、安心に置く」
喉の奥で、言葉がすっと一列に並ぶ音がした。
「……やります」
私はキーボードに向かい、一息に書いた。
「事実の順序」「現行への影響なし」「再発防止の具体」を三点で示し、最後に短く、読者の不安に触れる一文を置く。
『本件は、作品づくりの途中で生まれた“古いメモ”が、誤って流れたものです。私たちは最終稿で勝負します。』
打ち終えた瞬間、胸の深いところがふっと軽くなった。
——七年前、言えなかった一行を、いま別の形で書き直している。
文案を読み終えた遥斗が、静かに頷く。
「いい。背伸びも言い訳もない。これでいこう」
そのときだった。会議室の扉が開き、志乃が小走りに入ってきた。同行の秘書が息を上げている。
「遥斗、大丈夫? “香山さんの端末から”って——」
言いかけた志乃の声に、彼はぴたりと向き直る。
「母さん。事実は確認済みだ。香山は関係ない」
言葉は静かで、揺れない。
志乃は目を瞬かせ、それからゆっくりと私のほうを見た。
「……軽率だったわ。ごめんなさい」
「いえ」
拒むでも、受け取るでもない、素直な返事が自分の口から出たのがわかった。
最後の棘が、音もなく抜け落ちた気がした。
午後、対処は滞りなく進み、拡散は小規模のうちに収束した。
夕方、空は薄い灰色から水色へと戻り、窓の向こうの雲の切れ間から、きらりと細い光が差した。
席に戻ると、デスクの上に小さな付箋が一枚。
《ロビー、5分——H》
イニシャルが可笑しくて、私は笑いを飲み込みながら立ち上がる。
ロビーは夕方の人の流れが落ち着き、ガラスの外に街路樹の影が長く伸びていた。
柱の陰で待っていた遥斗は、私を見るとわずかに肩の力を抜いた。
「おつかれ」
「おつかれさまです」
敬語が混じる。思わず二人とも笑う。
「今日は……ありがとう」
「私こそ。——“個人名を口にしない”、助かりました」
「それは僕の流儀でもあるけど」
彼は少し間を置き、言葉を足した。
「昔、守れなかった誰かがいた。ラベルを貼られて、実力と関係ない噂に潰されそうになって……そのとき、僕は正しさの盾を出すのが遅かった。だから、もう遅れない」
初めて聞く話だった。胸の奥で、七年前の“置き去り”と呼応する音がする。
「……ありがとう」
ふいに、彼が左手の指輪を外した。
何度も光の話題になった小さな輪。
「これ、母の誕生日の記念だ。仕事中に身につけるのは、今日で最後にする。必要以上の誤解を生むなら、それは僕の選択ミスだから」
驚いて目を上げると、彼は淡く笑った。
「別に捨てるわけじゃない。プライベートでつける。ただ——現場で君の足を引っぱるものなら外す」
胸のどこかが、静かにほどけた。
「……ありがとう」
「礼を言われる筋合いじゃない。僕の仕事だ」
定型句のはずなのに、今日は不思議と温かい。
「そういえば」
遥斗が少し照れたように視線を逸らす。
「母さん、さっき君に謝った?」
「はい」
「よかった。怖かったろ」
「……正直、少し。でも、もう大丈夫です」
「ならいい」
ガラスの外、横断歩道の白が雨上がりの路面に淡く滲む。
プロローグの夜に見た風景が、鮮やかな現在形に重なる。
誤解の最後尾に、やっとたどり着いたのだと思った。
「帰り、送る」
「いえ、大丈夫。駅まで近いので」
「じゃあ、途中まで」
並んで歩き出す。自動ドアが開き、少し冷たい外気が頬を撫でる。
信号待ち。
赤い光が、足元の白線をくっきりと浮かび上がらせる。
ふいに、遥斗が傘を私の頭上にそっと差し出した。
雲の切れ間から落ちてくる細かな霧雨が、布にやわらかく弾かれる。
「濡れますよ」
初めて交わした言葉と同じ響き。
私は笑って、彼の腕に軽く指を添えた。
「もう、うまく濡れないから大丈夫」
信号が青に変わる。
人の流れに合わせて、二人の歩幅が自然に重なる。
誤解は、確かに後ろに残った。
けれど、物語はまだ続いていく。次に揺れるのは仕事の山か、心の小さな段差か。
どちらにせよ——今度は、並んで越えていける。
歩道の先に、夕暮れの薄い金色が広がっていた。