「雨の交差点で、君をもう一度」
第2章「仕事の顔と昔の面影」
午前の会議が終わると、神宮寺は本社のスケジュールを確認してから、私たちのフロアに腰を据えた。
長机の端、持参したノートPCを開き、タブレットとスマホを並べる。画面に映る数字やグラフは、私には見慣れない本社側の管理資料だ。
正直、空気が変わった。
彼がそこにいるだけで、周囲の緊張が一段階上がる。企画部の先輩たちも、資料を持って小走りに彼の席へ向かい、要点だけを伝えてはすぐに戻っていく。
私も、午後のプレゼン準備の件で呼ばれた。
「香山さん、ここのキャッチコピー、昨日の案のままだと弱い」
「……はい。修正案を三つ用意します」
「三つじゃ足りない。五つ。時間は一時間後。無理なら僕が作る」
冷静な声が、ガラスのように透き通っているのに、芯は硬い。
「……やります。一時間後に」
席へ戻り、メモ帳を開く。頭の中に残る彼の言葉を反芻しながら、キーボードを叩く。
厳しい。でも——嫌な厳しさじゃない。必要だから突きつけられる課題。それは高校時代の彼が、生徒会で文化祭の企画を詰めていたときの姿に似ていた。
あの頃も、こうやって真剣な目をしていた。思い出に触れるたび、胸が熱を帯びる。
五案を揃えて彼のデスクに持って行くと、彼は画面から目を上げた。
「……全部、悪くない」
短い間のあと、三案目の右上に丸をつける。
「これをベースに、構成を整えれば使える」
私が礼を言おうとした瞬間、片瀬さんが軽やかに近づいた。
「神宮寺、午後の社内会議、三十分前倒しになりました」
「了解。香山さん、この修正版は片瀬に共有して。僕は会議に入る」
「はい……」
視界の端で、片瀬さんが私を見てにこやかに頷く。
「神宮寺、これ終わったらお昼どうします?」
「手短に済ませる」
「じゃあ、地下のカフェでサンドイッチ買ってきますね。コーヒーは?」
「ブラックで」
そのやり取りがあまりに自然で、息が詰まる。昨日の雨の日の女性と、いまの片瀬さんが頭の中で重なった。
昼休み、私は奏多と外のカフェへ。
席につくなり、彼がストローを咥えながら切り出す。
「……神宮寺さん、本社でも評判らしいな。仕事は超できるし、顔もいいって」
「そうみたいだね」
「でもさ、美桜のほうが——」
奏多は言いかけて、氷の音でごまかした。
「……まあ、なんでもない」
胸の奥で、その“なんでもない”が小さく刺さる。
私のことをどう思ってくれているのか。奏多の優しさに甘えると、きっともっとややこしくなる。だから何も聞かない。
午後、社内チャットに片瀬さんからメッセージが届いた。
《午前の修正版、助かりました。神宮寺にも確認済みです》
ビジネスライクな一文に安堵しつつも、そこに彼の直接の言葉がないことに、少しだけ胸が沈む。
夕方、本日の最終打ち合わせが始まった。
神宮寺は本社役員との会議後らしく、ネクタイを少し緩め、額の髪がわずかに乱れている。
「この案でいく。細部は明日までに詰めてほしい」
淡々と結論を述べ、資料を閉じる。そのとき、ペンが机から転がり落ちた。
「あ——」
思わず手を伸ばすより先に、彼が拾い上げ、私の手元に置いた。
触れた瞬間、ほんの一秒、視線が交わる。
その瞳に、昨日の雨の温度が一瞬だけ戻った気がして、息が詰まる。
「助かります」
「……仕事だから」
同じやり取りなのに、昨日より少しだけ柔らかかった。
打ち合わせ後、私がデスクに戻ると、千草さんが囁いた。
「ねえ、聞いた? 本社の重役の娘さんと神宮寺さん、昔からの知り合いなんだって」
「……え?」
「片瀬さんが、誰かに話してたらしいよ。まあ、噂だから本当かはわからないけどね」
胸の奥で、何かがざわめいた。
指輪、自然な距離、昔からの知り合い——それらが一つの線で結ばれていくような感覚。
“また連絡する”の言葉が、遠くに霞んでいった。
その夜、家に帰っても胸のざわつきは消えなかった。
机の上の名刺入れを開く。白地に黒の印字、端正な字体。
仕事相手。それ以上でも、それ以下でもないはずなのに——。
長机の端、持参したノートPCを開き、タブレットとスマホを並べる。画面に映る数字やグラフは、私には見慣れない本社側の管理資料だ。
正直、空気が変わった。
彼がそこにいるだけで、周囲の緊張が一段階上がる。企画部の先輩たちも、資料を持って小走りに彼の席へ向かい、要点だけを伝えてはすぐに戻っていく。
私も、午後のプレゼン準備の件で呼ばれた。
「香山さん、ここのキャッチコピー、昨日の案のままだと弱い」
「……はい。修正案を三つ用意します」
「三つじゃ足りない。五つ。時間は一時間後。無理なら僕が作る」
冷静な声が、ガラスのように透き通っているのに、芯は硬い。
「……やります。一時間後に」
席へ戻り、メモ帳を開く。頭の中に残る彼の言葉を反芻しながら、キーボードを叩く。
厳しい。でも——嫌な厳しさじゃない。必要だから突きつけられる課題。それは高校時代の彼が、生徒会で文化祭の企画を詰めていたときの姿に似ていた。
あの頃も、こうやって真剣な目をしていた。思い出に触れるたび、胸が熱を帯びる。
五案を揃えて彼のデスクに持って行くと、彼は画面から目を上げた。
「……全部、悪くない」
短い間のあと、三案目の右上に丸をつける。
「これをベースに、構成を整えれば使える」
私が礼を言おうとした瞬間、片瀬さんが軽やかに近づいた。
「神宮寺、午後の社内会議、三十分前倒しになりました」
「了解。香山さん、この修正版は片瀬に共有して。僕は会議に入る」
「はい……」
視界の端で、片瀬さんが私を見てにこやかに頷く。
「神宮寺、これ終わったらお昼どうします?」
「手短に済ませる」
「じゃあ、地下のカフェでサンドイッチ買ってきますね。コーヒーは?」
「ブラックで」
そのやり取りがあまりに自然で、息が詰まる。昨日の雨の日の女性と、いまの片瀬さんが頭の中で重なった。
昼休み、私は奏多と外のカフェへ。
席につくなり、彼がストローを咥えながら切り出す。
「……神宮寺さん、本社でも評判らしいな。仕事は超できるし、顔もいいって」
「そうみたいだね」
「でもさ、美桜のほうが——」
奏多は言いかけて、氷の音でごまかした。
「……まあ、なんでもない」
胸の奥で、その“なんでもない”が小さく刺さる。
私のことをどう思ってくれているのか。奏多の優しさに甘えると、きっともっとややこしくなる。だから何も聞かない。
午後、社内チャットに片瀬さんからメッセージが届いた。
《午前の修正版、助かりました。神宮寺にも確認済みです》
ビジネスライクな一文に安堵しつつも、そこに彼の直接の言葉がないことに、少しだけ胸が沈む。
夕方、本日の最終打ち合わせが始まった。
神宮寺は本社役員との会議後らしく、ネクタイを少し緩め、額の髪がわずかに乱れている。
「この案でいく。細部は明日までに詰めてほしい」
淡々と結論を述べ、資料を閉じる。そのとき、ペンが机から転がり落ちた。
「あ——」
思わず手を伸ばすより先に、彼が拾い上げ、私の手元に置いた。
触れた瞬間、ほんの一秒、視線が交わる。
その瞳に、昨日の雨の温度が一瞬だけ戻った気がして、息が詰まる。
「助かります」
「……仕事だから」
同じやり取りなのに、昨日より少しだけ柔らかかった。
打ち合わせ後、私がデスクに戻ると、千草さんが囁いた。
「ねえ、聞いた? 本社の重役の娘さんと神宮寺さん、昔からの知り合いなんだって」
「……え?」
「片瀬さんが、誰かに話してたらしいよ。まあ、噂だから本当かはわからないけどね」
胸の奥で、何かがざわめいた。
指輪、自然な距離、昔からの知り合い——それらが一つの線で結ばれていくような感覚。
“また連絡する”の言葉が、遠くに霞んでいった。
その夜、家に帰っても胸のざわつきは消えなかった。
机の上の名刺入れを開く。白地に黒の印字、端正な字体。
仕事相手。それ以上でも、それ以下でもないはずなのに——。