「雨の交差点で、君をもう一度」

第3章「噂という名の雨粒」

 翌週の月曜、出社してすぐに耳に入ったのは、低い笑い混じりの囁き声だった。
「……で、本社の重役の娘さんなんだって」
「やっぱりそうなんだ。だって指輪してたもんね」
「婚約指輪でしょ。絶対そう」

 私はコピー機の前で、手にした資料を見つめたまま、耳だけが勝手に反応する。
 プリントアウトの機械音がやけに大きく響いて、心臓の鼓動と重なった。

「香山さん」
 背後から千草さんの声。振り返ると、いつもの冷静な顔に、少しだけ申し訳なさそうな色が混じっていた。
「……気にしないで。噂なんて、事実より早く走るから」
「はい……」

 わかっている。仕事に関係のないことに心を揺らすのは、無駄だ。
 でも、耳に入ってしまった言葉は、雨粒みたいにじわじわと滲んで広がる。

 午前中の打ち合わせでは、神宮寺は相変わらず冷静で、必要なことだけを的確に伝える。
「この数値、もう少し説得力を持たせたい。香山さん、追加の調査を」
「はい」
 メモを取りながら、指輪が視界の端で光るのを見ないふりをする。

 会議後、片瀬さんが彼のデスクに寄っていく。
「午後の本社会議、同席しますよね?」
「ああ」
「じゃあ、終わったら例の件も……」
 二人だけの会話。距離の近さ。
 内容なんて、ただの業務連絡かもしれない。それでも、頭の中で“例の件”に勝手な意味が生まれてしまう。

 昼休み、奏多が机の端を軽く叩いた。
「外行こうぜ。社食、今日は混んでる」
「……うん」

 外のカフェで席に着くと、奏多はさりげなく私の向かいに座り、カプチーノをかき混ぜながら言った。
「最近、ちょっと元気ないよな」
「そう……見える?」
「見える。俺、香山の顔、長いこと見てきたから」

 その言葉に、少し笑ってしまう。
「なんかあったら言えよ。……俺は味方だから」
 冗談っぽく笑うけれど、その目は真剣だった。
 味方——その響きが、冷えた胸に静かに染み込む。

 午後、デスクで調査データをまとめていると、チャットの通知音が鳴った。
《星和HD:神宮寺》
《明日午前、急遽打ち合わせ追加。香山さん、出席してもらえる?》
《承知しました》
 短いやり取りなのに、胸がざわつく。
 その“もらえる?”という言い回しが、妙に距離を縮めるようで、同時に遠く感じる。

 夕方、コピー機の横で別部署の同僚が話しているのが聞こえた。
「神宮寺さんって、本社でも人気らしいよ。性格はクールだけど、婚約者には優しいんだって」
「やっぱり、あの指輪……」
 ——雨粒が、また一つ。
 放っておけば蒸発するかもしれないのに、私の胸では溜まっていくばかりだった。

 定時後、帰ろうとすると、エントランスで偶然神宮寺と鉢合わせた。
「帰るのか」
「はい」
「この資料、明日までに見ておいてほしい」
 差し出されたファイルを受け取る指先が、かすかに触れた。
 その一瞬、彼の目がわずかに和らぐ——気がした。
「……わかりました」
 答える声は、雨に濡れたアスファルトのように重かった。

 外に出ると、空は曇り、湿った風が頬を撫でた。
 また雨が降るかもしれない。
 傘を持たずに来たことを、少しだけ後悔した。
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