隠れ婚約、社内厳禁!――分析女子と学び直し男子の甘口スクランブル

第1話_婚約者、今だけ貸してください

 九月初旬。老舗食品メーカー「白波屋」の朝礼は、九時ぴったりに始まる。新宿本社の会議室には、マーケティング課の面々がずらりと並び、やや緊張を帯びた空気の中で開始を待っていた。
 派遣社員の相川純平は、机に一冊のノートを置いた。表紙はすでに角が丸くなり、分厚く貼られた付箋がひらひらと揺れている。
 「おはようございます。今日はまず、前回の陳列での“チーズ最中が見えにくかった件”について共有です」
 純平はノートを開き、付箋を一枚抜き取ると、課員一人ひとりに配っていく。黄色い紙には、〈視認性不足→列をずらす〉と手書きされていた。
 「同じ失敗を繰り返さないように、今日はこの修正を先に提案しておきます」
 淡々と語る彼の声は穏やかだが、どこか安心感がある。
 対面に座る小野真由は、資料を手に取りながら、メモ帳に数式を書き付けた。
 「仮説としては、見えやすさよりも“匂いの流れ”が導線を決めるんです。人は視覚よりも、嗅覚で足を止めやすいから」
 彼女の瞳はきらりと光り、会議室の空気を数度上げた。マーケ課では誰もが彼女を「分析屋」と呼ぶが、それは皮肉ではなく称賛だった。
 会議後、純平と真由は商業施設の下見に向かった。秋商戦に合わせて出店予定の「海苔チーズ最中」を並べる場を確保するためだ。
 案内してくれた施設担当者は、タブレットを片手に笑顔を浮かべた。
 「最近は“同伴者割”が流行ってましてね。カップル限定で集客できる企画を取り入れたテナントは、審査で有利なんです」
 「カップル限定……ですか」真由は眉をひそめる。
 「はい。数字が段違いですから」
 そのときだった。背後から「なるほどォーッ!」と雷鳴のような声が飛んできた。
 営業担当の鳴海匠だった。彼は大股で近づき、担当者の耳が痛むほどの声量で続けた。
 「つまり二人で来る客を狙えば勝率が上がるんだな! ほら、あの二人なんて、いかにも婚約者っぽいし!」
 「えっ」真由が固まる。
 担当者が目を丸くして二人を交互に見た。純平と真由。視線が交差する。
 一瞬の沈黙のあと、純平が口を開いた。
 「……はい、実は、婚約者なんです」
 真由の目が大きく見開かれる。しかし彼はあくまで平静を装い、微笑みさえ浮かべている。
 彼女は脳内で素早く計算を始めた。嘘のコスト、リスク、そして目の前の利益。社内規定では婚約禁止。しかし、この場を乗り切り、審査に通る確率を跳ね上げられるなら――。
 「そうなんです。短期的なメリットが大きいので」
 真由は結論を出し、嘘に同意した。
 かくして二人は、“隠れ婚約”を演じることになった。
 帰り道。社内の規定を思い出しながら、真由は小声で確認した。
 「……社内では、どうするんです?」
 「もちろん他人です。利害関係の回避が目的でしょう?」純平は歩く速度を落とし、彼女の歩幅に合わせた。
 彼の自然な仕草に、真由は胸の奥がざわつくのを感じた。
 その後の会議室で。匠が両手を広げて叫ぶ。
 「社内では赤の他人、外では結納!? 声を使い分けるの、無理!」
 「まずは声量を半分にしろ」品質保証の高城絵理が冷静に切り捨てる。
 会議室は笑いに包まれ、奇妙で甘い“隠れ婚約”の幕が切って落とされた。
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