隠れ婚約、社内厳禁!――分析女子と学び直し男子の甘口スクランブル

第2話_条件は“バレないこと”

 翌日の昼。社員食堂は、海苔の香りと揚げ油の匂いが混じって、食欲をそそるざわめきで満ちていた。白波屋の定食は社員割引が効くこともあり、皆がトレーを片手に思い思いの席へ散っていく。
 真由は入口近くの空席に腰を下ろし、海苔定食を前にノートを広げていた。数式と矢印でびっしり埋まった紙面を睨んでいると、隣に座った純平が、さりげなく別の容器を置いた。
 「これ、塩分控えめライン。味見してみて」
 真由は箸を止め、驚いたように彼を見る。容器の中には、調味料を減らした副菜が並んでいた。
 「……私のカロリー管理、覚えてたんですか?」
 「市場調査には健康も大事でしょ」純平は笑う。その自然さに、真由は目を伏せた。
 そこへ絵理が姿を現した。首から下げた塩分計が小さく揺れている。彼女は椅子を引き、二人の前に座った。
 「条件を出すわ。社内で“婚約者”の噂が広まるのは論外。だから行動規範を決める」
 「行動規範……?」真由が眉を上げる。
 「呼称は名字。指輪は市場調査時のみ。社内メールは敬語固定。最低限この三つは守って」
 真由と純平は顔を見合わせ、同時に頷いた。
 その週末、二人は試食モニター会の準備に追われていた。商業施設の特設会場に並ぶ什器はまだ冷たい金属の匂いを放ち、真由は人の流れをシミュレーションする。
 「ピークタイムは午後二時。香りで呼び込みます。海苔を焙煎して匂いを漂わせ、チーズは糸引き写真で視覚を狙う。嗅覚と視覚の複合訴求です」
 彼女の説明に、純平は頷きながらノートを開く。貼られた付箋には〈呼び込み失敗:大声で逆効果〉と書かれている。
 「前に僕が連呼して客が逃げたことがあるんです。だから今回は“三段階アプローチ”でいきます。目線を合わせる→一言声をかける→一歩横に並ぶ。この順番」
 実際に試してみると、彼の落ち着いた声と距離感は、自然に客を立ち止まらせる力を持っていた。
 一方、匠はというと――。
 「……へい、どうぞ……」
 声を潜めすぎて、不審者のようにうつむいている。
 「逆に怪しいわよ」絵理が塩分計を指で弾きながら呟く。
 笑いがこぼれ、会場の緊張がほぐれた。
 モニター会が始まると、質問が飛んだ。
 「婚約者あるあるって何かあります?」
 不意の問いに、純平と真由は目を合わせた。次の瞬間、同時に口を開く。
 「初デートは映画でした」
 「初デートは水族館でした」
 ……沈黙。
 会場の空気がざわつく中、絵理がさらりと口を開いた。
 「映画館が入ってる水族館、ありますよね」
 観客が「ああ」と頷く。真由は心臓をなで下ろした。
 終了後、純平が小声で笑う。
 「嘘の設定は増やさない方がいいですね」
 「だから条件が必要なんです」真由はきっぱりと答えた。
 その真剣さに、純平の胸の奥に熱いものが広がる。彼女の分析を支えたい――その思いは、隠しきれないほど強くなっていた。
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