銀の福音
第二十一話 錬金術師の証明と秩序の天秤
「公爵としての資格はありますまい」
グライフェン辺境伯の冷たい言葉が、浄化された森の澄んだ空気に突き刺さる。カイエンを囲む騎士たちの殺気が、肌を焼くように高まっていく。
「グライフェン……貴様、正気か」
カイエンはエリアーナを背に庇いながら、地を這うような低い声で言った。傷の痛みで、立っていることさえやっとなはずなのに、その瞳は絶対君主としての威光を失っていなかった。
「噂に惑わされ、主君に剣を向ける。それが、ヴォルフシュタインに仕える騎士の誇りか。非論理的極まりない」
しかし、そのカイエンの「論理」は、今の辺境伯には届かなかった。
彼がまだ若き騎士だった頃、先代公爵――カイエンの祖父――は、ある村を襲った獣の討伐において、情にほだされた判断を下した。獣が連れていたという幼い子供の存在に心を痛め、討伐を一日遅らせたのだ。
その結果、獣は夜の間に村を壊滅させ、彼の親友とその家族を含む、多くの民が命を落とした。
『感情は、秩序を乱す毒だ。上に立つ者は、私情を捨て、冷徹なまでに法と論理に従うべきなのだ』
親友の亡骸の前で、彼は誓った。以来、彼にとって「秩序」と「論理」こそが、守るべき絶対の正義となった。カイエンの非情なまでの論理的統治を、誰よりも支持していたのは、彼自身だったのだ。
だからこそ、今のカイエンの姿は、彼にとって許しがたい「裏切り」だった。かつて悲劇を生んだ「情」という名の過ちに、主君が堕ちてしまったと、彼は固く信じ込んでいた。
「黙れ、魔女が!公爵様を誑かしおって!」
辺境伯の部下が、エリアーナに剣先を向ける。
その瞬間、これまでカイエンの背に隠れていたエリアーナが、静かに一歩、前へ出た。
「待ちなさい」
凛とした声だった。お腹に手を当て、母としての強さと、錬金術師としての誇りをその瞳に宿して。
「あなた方が信じる『噂』と、私が今から提示する『事実』。どちらが真実か、その目で確かめなさい」
エリアーナは、懐から数種類の鉱石と薬草を取り出すと、その場で簡易的な錬金術の準備を始めた。
「あなた方の足元にある、この土を見て。数日前まで、ここは生物の生存を許さない、死の土壌だった。だが今、マナは安定し、生命の息吹を取り戻している」
彼女は、再生した土を少量の液体と混ぜ合わせる。すると、土はまばゆい光を放ち、その光が周囲の若草の成長を促した。
「私がしたことは、魔法のような奇跡ではない。この森を蝕んでいた瘴気のマナ構造を解析し、それを中和する触媒を生成しただけ。すべては、知識と計算に基づいた『論理』の帰結。あなた方が言うような、人を誑かす魔術などではないわ」
彼女は、浄化した泉の水を汲むと、辺境伯の前に差し出した。
「飲んでみなさい。これも、私が浄化したもの。この水が、この森の再生が、『事実』か『虚構』か。それを判断するだけの理性は、誇り高き北の騎士であるあなた方にも備わっているはずよ」
エリアーナの言葉に、騎士たちがどよめく。
彼女は、感情で反論しなかった。ただ、圧倒的な「事実」と「結果」を、彼らの目の前に突きつけたのだ。
それは、奇しくも、カイエンが最も信奉する戦い方そのものだった。
グライフェン辺境伯は、エリアーナの持つ曇りなき瞳と、彼女が差し出す清らかな水、そして、生まれ変わりつつある森の現実を前に、言葉を失った。
自らの信じる「秩序」の天秤が、今、大きく揺らぎ始めていた。
グライフェン辺境伯の冷たい言葉が、浄化された森の澄んだ空気に突き刺さる。カイエンを囲む騎士たちの殺気が、肌を焼くように高まっていく。
「グライフェン……貴様、正気か」
カイエンはエリアーナを背に庇いながら、地を這うような低い声で言った。傷の痛みで、立っていることさえやっとなはずなのに、その瞳は絶対君主としての威光を失っていなかった。
「噂に惑わされ、主君に剣を向ける。それが、ヴォルフシュタインに仕える騎士の誇りか。非論理的極まりない」
しかし、そのカイエンの「論理」は、今の辺境伯には届かなかった。
彼がまだ若き騎士だった頃、先代公爵――カイエンの祖父――は、ある村を襲った獣の討伐において、情にほだされた判断を下した。獣が連れていたという幼い子供の存在に心を痛め、討伐を一日遅らせたのだ。
その結果、獣は夜の間に村を壊滅させ、彼の親友とその家族を含む、多くの民が命を落とした。
『感情は、秩序を乱す毒だ。上に立つ者は、私情を捨て、冷徹なまでに法と論理に従うべきなのだ』
親友の亡骸の前で、彼は誓った。以来、彼にとって「秩序」と「論理」こそが、守るべき絶対の正義となった。カイエンの非情なまでの論理的統治を、誰よりも支持していたのは、彼自身だったのだ。
だからこそ、今のカイエンの姿は、彼にとって許しがたい「裏切り」だった。かつて悲劇を生んだ「情」という名の過ちに、主君が堕ちてしまったと、彼は固く信じ込んでいた。
「黙れ、魔女が!公爵様を誑かしおって!」
辺境伯の部下が、エリアーナに剣先を向ける。
その瞬間、これまでカイエンの背に隠れていたエリアーナが、静かに一歩、前へ出た。
「待ちなさい」
凛とした声だった。お腹に手を当て、母としての強さと、錬金術師としての誇りをその瞳に宿して。
「あなた方が信じる『噂』と、私が今から提示する『事実』。どちらが真実か、その目で確かめなさい」
エリアーナは、懐から数種類の鉱石と薬草を取り出すと、その場で簡易的な錬金術の準備を始めた。
「あなた方の足元にある、この土を見て。数日前まで、ここは生物の生存を許さない、死の土壌だった。だが今、マナは安定し、生命の息吹を取り戻している」
彼女は、再生した土を少量の液体と混ぜ合わせる。すると、土はまばゆい光を放ち、その光が周囲の若草の成長を促した。
「私がしたことは、魔法のような奇跡ではない。この森を蝕んでいた瘴気のマナ構造を解析し、それを中和する触媒を生成しただけ。すべては、知識と計算に基づいた『論理』の帰結。あなた方が言うような、人を誑かす魔術などではないわ」
彼女は、浄化した泉の水を汲むと、辺境伯の前に差し出した。
「飲んでみなさい。これも、私が浄化したもの。この水が、この森の再生が、『事実』か『虚構』か。それを判断するだけの理性は、誇り高き北の騎士であるあなた方にも備わっているはずよ」
エリアーナの言葉に、騎士たちがどよめく。
彼女は、感情で反論しなかった。ただ、圧倒的な「事実」と「結果」を、彼らの目の前に突きつけたのだ。
それは、奇しくも、カイエンが最も信奉する戦い方そのものだった。
グライフェン辺境伯は、エリアーナの持つ曇りなき瞳と、彼女が差し出す清らかな水、そして、生まれ変わりつつある森の現実を前に、言葉を失った。
自らの信じる「秩序」の天秤が、今、大きく揺らぎ始めていた。