銀の福音
第二十六話 王都の毒蛇と森の福音
王都ローゼンベルク侯爵邸。
レオンからの報告を受けたリリアーナは、持っていた扇子を叩き割り、わなわなと震えていた。
「あの女……!私からすべてを奪った挙句、今度は氷血公爵まで手玉に取ったというの!?」
双子の妹であるエリアーナは、いつも彼女が欲しかったものを、いとも容易く手に入れていた。
両親が密かに称賛する「才能」、レオンが惹かれた「純粋さ」。
リリアーナが手に入れたものは、すべてエリアーナの才能のおこぼれだった。
その劣等感が、彼女の異常なまでの承認欲求の根源となっていた。
『私が、一番でなければならない。エリアーナの存在そのものが、私の輝きを蝕む影なのだ』
その歪んだ思い込みが、彼女を残酷な陰謀へと駆り立てる。エリアーナが幸せになることなど、断じて許せないのだ。
彼女の前に立つ、フードの男――「賢者の真眼」の幹部は、静かに告げた。
「好都合です、リリアーナ様。カイエン公爵が『父親』を名乗ったことで、彼は自ら王家と敵対する道を選んだ。彼は孤立します。我々が手を下すまでもありません」
「では、どうするのです!?」
「火に油を注ぐのです。北方の諸侯に、さらに噂を流します。『公爵は魔女に溺れ、私生児を世継ぎにするために、北方全土を戦争に巻き込もうとしている』と。同時に、公爵家と繋がりの深い辺境の村で、原因不明の『病』を流行らせます」
男の計画は、こうだ。 謎の病で民の不安を煽り、カイエンの統治能力に疑問符をつける。そして、その病を治せるのは、王都が管理する『聖女リリアーナ様の奇跡の薬』だけだと吹聴する。民衆の支持を失い、諸侯に背かれたカイエンは、自滅するしかない。
「カイエン公爵の『論理』では、人の心という『不合理』は支配できません。彼の愛が深ければ深いほど、その愛が、彼自身を滅ぼす枷となるのです」
男の言葉に、リリアーナの顔に、蛇のように冷たい笑みが戻った。
その頃、黒の森。
エリアーナは、カイエンとの誓いを胸に、本格的な研究開発に着手していた。
彼女が最初に向かったのは、あの「呪いの心臓」があった洞窟の跡地。
瘴気が完全に浄化されたその場所には、見たこともない植物が芽吹いていた。 それは、浄化の際に生まれた膨大な聖なるマナを吸い、月光のように青白い光を放つ、美しい苔だった。
「……すごい。マナの凝縮率が、これまでのどんな薬草とも比較にならないわ」
エリアーナがその苔に触れると、暖かな生命力が、手のひらから体中に満ちてくるようだった。
ルーンも、その苔の周りを、嬉しそうに駆け回っている。
彼女は、この苔に「星雫苔」と名付け、慎重にサンプルを採取した。 工房に戻り、カイエンから提供された最新の設備で分析を進める。そして、彼女は驚くべき事実に気づいた。
この苔は、あらゆるマナの構造を安定させ、増幅させる、万能の触媒としての性質を持っていたのだ。
これを使えば、彼女がかつて作り上げた「アルカナ・エリクシル」を、遥かに凌駕する薬が作れるかもしれない。不毛の大地を、一夜にして豊かな森に変えることさえ可能かもしれない。 それは、戦争の道具ではなく、人々の暮らしそのものを根底から変える、「福音」とも呼べる力だった。
(これがあれば……カイエン様の国を、誰にも侵されない楽園にできる)
エリアーナの胸に、新たな希望の光が灯る。
しかし、彼女はまだ知らない。 その希望の光を打ち消さんと、王都から放たれた悪意の種が、すでに北の辺境の村へと蒔かれ、静かに、しかし確実に、その毒の芽を伸ばし始めていることを。 穏やかな楽園のすぐ外側で、新たな悲劇の幕が、静かに上がろうとしていた。
レオンからの報告を受けたリリアーナは、持っていた扇子を叩き割り、わなわなと震えていた。
「あの女……!私からすべてを奪った挙句、今度は氷血公爵まで手玉に取ったというの!?」
双子の妹であるエリアーナは、いつも彼女が欲しかったものを、いとも容易く手に入れていた。
両親が密かに称賛する「才能」、レオンが惹かれた「純粋さ」。
リリアーナが手に入れたものは、すべてエリアーナの才能のおこぼれだった。
その劣等感が、彼女の異常なまでの承認欲求の根源となっていた。
『私が、一番でなければならない。エリアーナの存在そのものが、私の輝きを蝕む影なのだ』
その歪んだ思い込みが、彼女を残酷な陰謀へと駆り立てる。エリアーナが幸せになることなど、断じて許せないのだ。
彼女の前に立つ、フードの男――「賢者の真眼」の幹部は、静かに告げた。
「好都合です、リリアーナ様。カイエン公爵が『父親』を名乗ったことで、彼は自ら王家と敵対する道を選んだ。彼は孤立します。我々が手を下すまでもありません」
「では、どうするのです!?」
「火に油を注ぐのです。北方の諸侯に、さらに噂を流します。『公爵は魔女に溺れ、私生児を世継ぎにするために、北方全土を戦争に巻き込もうとしている』と。同時に、公爵家と繋がりの深い辺境の村で、原因不明の『病』を流行らせます」
男の計画は、こうだ。 謎の病で民の不安を煽り、カイエンの統治能力に疑問符をつける。そして、その病を治せるのは、王都が管理する『聖女リリアーナ様の奇跡の薬』だけだと吹聴する。民衆の支持を失い、諸侯に背かれたカイエンは、自滅するしかない。
「カイエン公爵の『論理』では、人の心という『不合理』は支配できません。彼の愛が深ければ深いほど、その愛が、彼自身を滅ぼす枷となるのです」
男の言葉に、リリアーナの顔に、蛇のように冷たい笑みが戻った。
その頃、黒の森。
エリアーナは、カイエンとの誓いを胸に、本格的な研究開発に着手していた。
彼女が最初に向かったのは、あの「呪いの心臓」があった洞窟の跡地。
瘴気が完全に浄化されたその場所には、見たこともない植物が芽吹いていた。 それは、浄化の際に生まれた膨大な聖なるマナを吸い、月光のように青白い光を放つ、美しい苔だった。
「……すごい。マナの凝縮率が、これまでのどんな薬草とも比較にならないわ」
エリアーナがその苔に触れると、暖かな生命力が、手のひらから体中に満ちてくるようだった。
ルーンも、その苔の周りを、嬉しそうに駆け回っている。
彼女は、この苔に「星雫苔」と名付け、慎重にサンプルを採取した。 工房に戻り、カイエンから提供された最新の設備で分析を進める。そして、彼女は驚くべき事実に気づいた。
この苔は、あらゆるマナの構造を安定させ、増幅させる、万能の触媒としての性質を持っていたのだ。
これを使えば、彼女がかつて作り上げた「アルカナ・エリクシル」を、遥かに凌駕する薬が作れるかもしれない。不毛の大地を、一夜にして豊かな森に変えることさえ可能かもしれない。 それは、戦争の道具ではなく、人々の暮らしそのものを根底から変える、「福音」とも呼べる力だった。
(これがあれば……カイエン様の国を、誰にも侵されない楽園にできる)
エリアーナの胸に、新たな希望の光が灯る。
しかし、彼女はまだ知らない。 その希望の光を打ち消さんと、王都から放たれた悪意の種が、すでに北の辺境の村へと蒔かれ、静かに、しかし確実に、その毒の芽を伸ばし始めていることを。 穏やかな楽園のすぐ外側で、新たな悲劇の幕が、静かに上がろうとしていた。