銀の福音

第五十一話 籠城の錬金術師と影の守護者

 城内に鳴り響く警報と、遠くで上がる爆発音。それは、ヴォルフシュタイン城が、もはや安全な楽園ではなく、巨大な鳥籠と化したことを告げる絶望の狼煙だった。

 ヴァレリウス伯爵は、エリアーナの前に、通信用の魔道具を置いた。

 「カイエン公爵は、今頃、偽の情報に踊らされ、黒獅子将軍の残党を逆賊と思い込んで狩りにでも出向いている頃でしょう。この城は、完全に我々の支配下にあります。賢明なご判断を、エリアーナ様」

 その言葉を最後に、ヴァレリウスは音もなく部屋を去った。彼の部下である、「賢者の真眼」の精鋭たちが、扉の外を固めている。

 「……フェリクス」

 エリアーナの静かな呼びかけに、部屋の影の中から、音もなく弟が姿を現した。

 「姉さん。どうやら、俺たちの出番のようだ」

 その瞳には、かつての暗殺者の昏い光ではなく、家族を守るという、揺るぎない決意の炎が宿っていた。

 彼が「無貌」として育てられた組織の訓練は、凄惨を極めた。感情を殺し、個性を捨て、ただ命令のままに人を殺す道具となるための教育。彼は、自分には価値がないと、空っぽの存在なのだと、心の底から信じ込まされていた。

 そんな彼に、エリアーナは「フェリクス」という名を与え、「弟」という役割を与えた。それは、彼が生まれて初めて手に入れた、自分自身のアイデンティティだった。

 『姉さんは、俺に光をくれた。アルヴィンは、俺に温もりをくれた。この光と温もりを奪おうとする者は、たとえかつての俺自身であろうと、この手で排除する』

 彼にとって、エリアーナとアルヴィンを守ることは、自らの魂を守るための、聖戦に他ならなかった。

 エリアーナは、眠るアルヴィンをフェリクスに預けると、研究室へと向かった。

 「フェリクス、この子をお願い。私は、私たちの城壁を作ります」

 彼女は、研究室に残っていた全ての素材をかき集め、驚異的な速さで調合を開始した。

 強力な酸を生み出す薬品、指向性を持たせた衝撃爆弾、敵の神経を麻痺させる毒ガス。かつて人を救うためにあった彼女の知識が、今、家族を守るための、容赦ない牙へと変わっていく。

 研究室の扉を錬金術で固く封鎖し、換気口には即席のフィルターを設置。廊下には、僅かなマナにも反応する、連鎖式のトラップを張り巡らせる。

 それは、母という名の城壁だった。

 「……見つけたぞ、裏切り者」

 研究室の扉の外から、冷たい声が響いた。ヴァレリウスの部下であり、フェリクスのかつての同僚でもある暗殺者たちが、静かな殺気を放っていた。

 「無貌。組織を裏切ったお前に、安らかな死はない」

 「黙れ」

 フェリクスは、アルヴィンを腕に抱きながら、短剣を構えた。

 「俺の名は、フェリクス。エリアーナ様の、ただ一人の弟だ。お前たちのような、名も顔も持たない亡霊に、俺の家族を傷つけさせはしない!」

 影として生きてきた男が、初めて光の中で、自らの名を叫んだ。

 扉の向こうで、暗殺者たちの総攻撃が始まろうとしていた。
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