出涸らしと呼ばれた第七皇子妃は出奔して、女嫌いの年下皇子の侍女になりました
五十一話〜変化〜
ガシャンとカップの割れる無機質な音が部屋に響いた。
「申し訳ありません! 直ぐに片付けます!」
エヴェリーナは床に散らばるガラスの欠片を慌てて拾おうとするが、セドリックに止められる。
「ソロモン、片付けて」
「かしこまりました」
そして何故かカップを落としたエヴェリーナではなく、ソロモンに片付けを命じた。
「いえ、私が片付けます」
「危ないからリズはしなくていいよ」
「ですが」
「この屋敷は男性ばかりなんだから、危険な事は彼等に任せればいい。それより、リズは怪我してない?」
「はい、私は問題ありません」
「それなら良かった」
優しく笑むセドリックに、どこかむず痒さを感じ落ち着かない。
「リズさんが失敗されるなんて初めてですよね」
床に散らばるガラスの欠片を集めながらソロモンは意外そうに眉を上げる。
「確かに、リズはいつも頑張り過ぎているから疲れが溜まっているのかも知れない。リズ、今日はもう休んだ方がいい。もし体調が優れないなら、医師を呼ぼうか」
セドリックは少し考える素振りを見せた後、深刻な表情でそんな提案をしてきた。
「い、いえ、大丈夫です。ただ手が滑ってしまっただけですので、私は至って健康です」
屋敷にきてからこれまで確かに失敗した記憶はないが、カップを一個割ってしまった事で注意される所かここまで心配されるとは思わなかった。
(それにしても、こんな初歩的な失態をするなんて……)
過剰に心配するセドリックやソロモン達に戸惑いながらも、エヴェリーナは「代わりのカップを持ってきます」と言って執務室から出ていく。
厨房でカップを用意しながら、何故か不意にジュリアスの事を思い出した。
最近は思い出す事も少なくなっていたのだが妙に気になり胸が騒つく。
(もう忘れないと……)
エヴェリーナは気を取り直してカップを手に執務室へと戻った。
その日の午後ーー
エヴェリーナは執務室で作業をしていた。
違法薬物事件から半月が過ぎ、また日常が戻ってきた。
毎日忙しないが充実している。
「セドリック様、書類の整理終わりました」
「ありがとう、助かるよ」
ただ少し変化があった。
セドリックからの信頼度が上がった為か、簡単な書類整理などを頼まれるようになった。
無論これまで通り侍女としての仕事もこなしているが、セドリックからの指示でこちらの仕事は幾つか取り上げられてしまった。その空いた時間で彼の手伝いをしている。
その為、必然的に一緒にいる時間が増えた。
幾らセドリックからの要望といえ、負担になっていないか心配だ。
仕事を手伝う事で肉体的に負担が減っても、精神的に負担になっているのならば元も子もないと思う。
「リズさんって凄過ぎませんか?」
手が離せないエヴェリーナの代わりにソロモンにお茶を頼んだのだが、執務室へ入ってくるなり突然そんな事を言い出した。
「私は、騎士団に入団してから文字を習ったり勉強を始めたんです。村ではちゃんとした教育が受けられなかったもので。なので日常生活で必要最低限の知識は備わっていますが、そのような難しい書類などは見ても全く理解出来ません。そもそも専門的な文字は読む事すら出来ないですよ。ああでも、ジルさんは貴族ですから別ですけど」
余計な事を言うソロモンにエヴェリーナは顔が引き攣りそうになる。
セドリックからの申し入れをごく普通に受けてしまったが、確かに言われてみれば平民のリズが公務の書類整理が出来るのは不自然だ。
そもそもセドリックもセドリックだ。当然のように頼んできたが、一体どういうつもりで任せているのだろうか。
だが今更過ぎる。
今からやはり出来ませんなどと言えば怪しさが増すばかりだ。
「当然だろう? リズはソロモンとは頭のつくりが違うんだよ」
「ああ、確かにそうですね。私とリズさんでは比べるのも烏滸がましいです。でもその言い方は、少し傷付きます」
「はは、悪かったよ」
「全然悪いと思っていらっしゃらないですよね」
「でも事実だろう?」
「そうですけど。大体セドリック様はいつもーー」
不貞腐れたような表情を浮かべるソロモンを見て、セドリックは揶揄うように笑う。
話は脱線し、ソロモンからセドリックへの不満に変わった。
どうやって言い繕おうかと考えていると、セドリックが助け舟を出してくれた。
その真意は不明ではあるが、ソロモンはすっかりセドリックの話に流されその後は特に何も言わずに部屋から出て行った。
「リズ、ひと段落着いたし、お茶が冷めない内に休憩にしよう」
「はい」
向かい側に座り楽しそうにショコラオレンジのケーキを食べているセドリックを見て、エヴェリーナの頬が緩む。
きっと彼は気付かないフリをしてくれている。だから今はその優しさに甘えようと思う。
「リュミエールのお菓子は、どれも美味しいね。でもやっぱり一番はシナモンのチョコかな」
「私は……先日頂いた、木苺のタルトが好きです」
ふとこちらを凝視している彼と目が合った。
一瞬驚いたように目を丸くするが、直ぐに笑みに変わる。
「今度またリュミエールへ行こうか。屋敷でゆったり食べるのもいいけど、雰囲気を味わうのもまた一興だしね」
「はい、楽しみにしています」
優雅なお茶のひと時を過ごした後、二人はまた仕事を再開した。