俺様上司はお隣さん?

俺様上司と残業と

「だから何度言ったらわかるんだ!」

バンっと、デスクに叩きつけられたファイルの音がする。私はそれに、怯えるでもなく冷めた目を向けた。

青い事務ファイルの上には窓から夕日が差し込んでいる。

今夜も残業確定だ。それにしても、物は大事にしろって教わらなかったのかしら。この人。
会社の備品だからって粗末に扱うんじゃないわよ。バチがあたっても知らないから。

心の中でボヤきつつ、視線を戻して相手の顔を伺う。

彫刻刀で彫ったみたいな眉間の皺。きっと将来後悔するわ。ざまあみろとしか言えないけれど。
だけど、きっとこういうのを烈火の如くと言うんだろう。怒らせたのは私だが。

「何度聞いても理解できないヤツのことを馬鹿と言うんだ馬鹿と!!」

「……はい」

暴言を吐かれて、腹の底からむかむかと憤怒が沸いてくる。

このご時世、言葉には気を付けるべきだろうに。そこまで言うかこの野郎。腹が立つったらありゃしない。

視線を真っ直ぐ目の前の敵に向け、同じくらい眉間に皺を寄せて睨み付ける。

コイツの眼光に竦む人は多いけれど、私は違う。
だから私と彼の視線は、まるで火花でも散るみたいにかち合った。

言い返したい。普段の私なら当然できる。だけどそれは、業務外の時間なら、ということ。

それができないのが心底悔しい。だって今は業務時間内。私はしがないOLなのだ。

そして私を叱り飛ばしている相手は、私が所属する課で最も地位のある人物。
的場(まとば)課長だ。

「修正しろ。今日中に全部だ。出来るまで帰るな!」

鋭い眼が、射殺すみたいに私を見た。

フルネームは的場 司(まとば つかさ)。
整った顔立ちに黒髪短髪、刃のように切れ長の瞳は鋭く、人を寄せ付けない雰囲気を持っている。

年齢は結婚適齢期であろう三十五歳。でも独身。
女子社員に騒がれているけど、絶対みんな目が節穴だと思う。

こんな奴のどこがいいのか。態度はデカイし口は悪いし。
そりゃまあ、顔が良いのは認めるわ。強面だけど人目を引くのは確かよね。黒髪にグレーストライプのスーツがびしっと決まってるし、冷たい感じもクールで格好良いって言ってた子もいたわ。

初対面の時は、流石の私も見惚れたわよ。
でも絶対、寄ってくる女は数多いるだろうに、この歳まで結婚してないってことは何かあるに決まってる。

私が二十八で独身なのはこの際置いとくわ。

確か、女性社員の間ではこいつはどこかの御曹司らしいとか噂もあったはず。でもそんなことより大事なのは性格よ。
コイツの性格は私にとっては問題外の外。一昨日来やがれってもんだわ。

「藤宮 亜紀(ふじみや あき)! 返事は!」

切っ先鋭い瞳が刺さる。立ち上るオーラのギスギス感に、思わす呻き声を漏らしそうになった。

人の名前をフルネームで呼び捨てか。ビビらせようったってそうはいかないんだから。

「わ・か・り・ま・し・たっっ!」

思い切り睨み返しながら返事をした。これくらいの反逆なんて可愛いもんよ。

「わかったなら早く行けっ!」

ばさっと、書類を押し付けられる。取り損ねた何枚かが、床に落ちた。

ああ悔しい。仕事じゃなければこんな男ぶん殴ってやるのに。
というか、物を粗末に扱うなつってんのよ。

あーあ。私が二時間かけて作った書類が。これでパアよ。

しかし悲しいかな、こいつは上司。刃向かうわけにもいかない。

また怒鳴られてはたまらないので、落ちた書類を手早く回収して私は自分のデスクに戻った。

椅子に座った途端、一気に脱力感に襲われる。流石に嫌になるわ。またこの資料と睨めっこなんて。

ため息一つ。項垂れていても仕方が無いので、私は背筋をぴんと直し、怒濤の勢いでキーボードを叩き始めた。



「あーっ腹立つ腹立つ! あんの俺様上司! あんたは殿様か! 時代錯誤もいいところよ! 上司だからって偉そうにっ!! なあによあの態度!」

お昼の休憩中、そよ風の吹くぽかぽかとしたお天気の下、私は毎度の如く頭をカッカさせながら憤慨していた。
会社の屋上が私のお昼ご飯指定席で、大抵はここで友達と一緒にお弁当を食べている。

「亜紀ちゃん、今日もご立腹だね~」

「麻友……」

相変わらずののんびり口調の麻友に、思わずベンチからずり落ちそうになった。
私の目の前でだし巻き卵を頬張っているのは、同僚であり友人の片岡麻友(かたおかまゆ)だ。

栗色のふんわり巻き髪に、大きな垂れ目。淡いピンクのOLスーツが私と違って素晴らしく似合う、柔らかい雰囲気の女子である。

あまり小説とかは読まないけれど、よくある代名詞の「綿菓子みたいな女の子」とは麻友みたいな子のことを言うのだろう。まったくもって羨ましい。

それに比べて、私のなんと女性らしさに欠けること。

肩までの黒髪はワンレンのストレート。前髪は斜めに流し少しでも女っぽく見えるようにしているけれど、いかんせん背丈が無いせいで子供が無理をしているみたいに見える。

世間では小柄な女性が好まれるというが、理想の自分になれないならただの無用の長物だ。

俺様上司の的場課長に舐められるのも、もしかするとこの身長が原因かもしれない。

「あんたはいつものんびりね、麻友。これがキレないでいられるかってのよ」

あらあら、と麻友は口元に手を添えて微笑んだ。女の私から見ても見蕩れるほど可愛いとはどういうことだろう。
上品可愛いお嬢様スマイルに、思わず私もへらりと笑いそうになるが、先ほどからの怒りがそれを押さえ込んだ。

「亜紀ちゃんったら。そんなにぷりぷりしてると、幸せ逃げちゃうわよ~?」

麻友はそう言いながら、お弁当のからあげを一つ口に入れた。
その仕草はなんとも平和で、人の怒りなんてどこ吹く風、といった感じだ。

「んなこと言ったってね麻友! 私は今日も残業よ。確定よ確定。せっかく麻友と田崎君達と呑みにいけると思ったのに……!」

持っていたお箸をぐっと握り締め、拳を上げて私は言った。

そうなのだ。
今日は麻友達と呑む約束だった日である。

田崎君とは、私と麻友と同期の男性社員で、よくクラスに一人は居る盛り上げ役みたいな感じの子だ。
営業マンだからか飲食店関係に詳しく、最近は田崎君の友達も入れて呑みに行くようになった。

結構以前から約束していたのに、あの的場課長のおかげでドタキャンすることになってしまったのだ。

「しょーがないね~。田崎君達にはちゃんと言っておくから安心して~。すーーーっごく、残念がると思うけど~。亜紀ちゃんってばモテるからあ~♪」

「違う違う。それは麻友だってば」

そう言いながら私は自分のお弁当からシャケのバター焼きを口にいれた。

モテているのは麻友の方だ。ふわふわしていて、女の子らしくて、私はおまけみたいなものだと思う。

田崎君とはよく話すけれど、そんな色っぽい話になったことは微塵も無いし、麻友自身は知らなくても、彼女は男性社員から大いに人気があるのだ。

「はあ。悪いけど田崎君達には謝っておいて……私たぶん午後からは誰とも話せないくらい時間無くなると思うから……」

行儀悪くも水色のお箸を咥えたまま、私は言った。

「あらあら♪ 可哀想だけど亜紀ちゃん、残業頑張ってね~」

これまたとびきり可愛い笑顔とまったり口調で、麻友は激励してくれた。

逆にやる気が削られるような気がしたのは、きっと気のせいじゃない。



はあ。今日も疲れた。

自宅アパートの階段を登りながら、長い長いため息を吐く。

それというのもあの俺様上司、的場司。全部あいつのせいだ。

あの後、仕事が終わったのは結局十時を時過ぎてしまった。

明日はお昼からの出勤と言っても、本当なら今日は早めに仕事を上がり、麻友達と一緒に飲みにいくはずだったというのに。

「……私のたまの楽しみを……!」

かれこれ考えたくないくらい彼氏もいないのに、楽しい事といったら友達との呑みと、買い物位だ。

イライラしながら、自分の部屋の鍵を開ける。年代ものの鉄扉が、キィっと音を立てて開いた。

私の住んでいるのは築三十年を越す古いアパートだ。

二階建てで、南側一番奥が私の部屋である。角部屋なので片方とはいえ隣を気にしなくて良いのは助かっている。それどころか、一昨日まではもう片方も空き部屋だった。そのおかげで両隣無人という最高環境だったのだ。

だけど昨日の夜、お隣さんから結構な物音が聞こえていた。おそらく誰か入居したんだろう。

変な奴で無ければ良いが。

「ただいまー……」

誰も居ない玄関に向かって一人呟く。入ってすぐのスイッチを押すと、小さなLED電球が白く足下を照らした。

このアパートは独身用だ。間取りもシンプルな十畳一間。

お風呂とトイレは別だが、キッチンは玄関上がってすぐの廊下片側に付いている。よくあるタイプだ。

「つーかーれーたー」

スーツを脱いでハンガーに掛け、朝脱ぎ飛ばしていた部屋着に着替えてからベッドに倒れ込む。

首と肩がありえないほどバキバキだ。もうこれ以上ないってくらい。

明日が休みなら、マッサージとか行きたかった。そろそろポイントカードが一杯になるのか何だか空しい。
と、まるでおじさんのような事を考えていたら、忘れていた空腹が主張を始めた。

「お、お腹すいた……」

そういえば、お昼を食べてから何も食べていなかった。
パソコンとひたすら睨めっこをしていたから、間食する余裕も無かったんだった。

「冷蔵庫何かあったかな……」

呟きながら小さめの冷蔵庫を開けると、嬉しくない光景が広がっていた。

がらんとした冷蔵庫内。置いているものが無いせいで中のランプが隅々まで明るく照らし出している。

ああ、私の馬鹿。

今日は呑みに行くつもりだったし、明日はお昼からだから、どこかで朝ごはんは買えばいいかと冷蔵庫をカラにしていたんだった。忘れていた。

でも、このままではお腹が空いて眠れなさそうだ。

それもこれも、全部課長のせいだ。あの俺様な陰険課長め。的場課長の馬鹿野郎。馬鹿って言う方が馬鹿なんだ。
ぐったりした体で悪態をつきつつ、仕方がないので近くのコンビニに行くことにした。

薄い上着を羽織って玄関の鍵を閉める。

季節はもう六月。だけど夜はまだ少し肌寒い。月明かりのおかげで周囲は見えている。だけど、こういうちょっとした買い物の時に自分は一人なのだと思い知るのだ。

そう思いつつ、アパートの階段を下りたその時だった。

「―――藤宮?」

聞き慣れた声がした。

だけど、ここでそんな声がするはずがない。

それとも私の残業の恨みで幻聴が聞こえたのだろうか。

「へ……?」

間抜けな声と共に、階下にいる人物の顔をよく見てみるとーーーコンビニ袋を片手に提げた、的場課長がそこに居た。

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