俺様上司はお隣さん?

俺様上司と私のご飯

聞きなれた声の方へ目を向けると、そこには私に残業をさせた張本人にして元凶、的場課長が立っていた。

「やっぱり藤宮じゃないか。お前何やってるんだ。こんな時間に」

人が呆然と佇んでいるのをまるで無視して、課長はそんなことを言う。

こんな時間って……あんたのせいでしょうが。あんたの。そう言いたくなるのをぐっと堪えた。というか何でこんなところに居るのよ。

「私はここに住んでるんです。残業してご飯を食べ損ねたので、コンビニでも行こうかと。課長こそ何をしてるんですか。こんなところで」

残業、というフレーズを強めに言ってやった。誰のおかげでこうなってると思ってるんだと嫌味を込めて。

「残業? ああ、今日のあれか。修正終わったのか?」

一瞬「ん?」という顔をして、課長は今思い出したという感じで言い放った。瞬間、私のこめかみにぴきりと青筋が浮いた気がした。
この男。私の残業のこと忘れていたんだわ。できるまで帰るなって言った張本人の癖に。

流石にむかついた。私の中でメラメラと怒りの炎が燃え上がる。

「終わりましたが? というより課長が終わるまで帰るなって言ったんじゃないですか。覚えてないんですか老化が早いですね。早期退職されたら如何ですか」

怒りが振り切れると私は逆に笑顔になるらしい。そのうえ疲れも相まって完全に喧嘩口調で言い返してしまう。でも仕方ない。人間、空腹の時の導線は誰だって短くなるはずだ。

「なんかキレてないか、お前……」

私の憤慨振りを理解したらしい課長が言う。

「キレてませんが。お腹が空いてイライラしているだけです。それより、結局課長はどうしてここにいるんですか? 質問に答えてもらってないんですが。お知り合いでも居るんですか? それか不審者ですか?」

ひたすら強気に出てしまう。上司にする態度ではないとわかっていても止められない。だけど今はプライベートなはずだ。つまり業務時間外だ。だったらこいつは上司じゃなくてただの敵だ。

空腹のせいでわけのわからない理論が私の中で展開されていく。

「あ、ああ……実は俺もここに住むことになってな。まぁしばらくの間だ。会社傍のマンションに部屋があるんだが、知り合いに貸すことになって、その間だけ借りることにしたんだ」

私の失礼千万な態度に珍しく顔を引き攣らせた課長は、しかし咎めることなく意外にも丁寧に事情を説明してくれた。そのせいで、私の中で臨戦態勢を取っていた猪のような怒りの塊が、ほんの僅かに落ち着きを取り戻した。

今気付いたけれど、階段下にいる課長から緊張感というものがまるで感じられない。

会社に居る時は、さながら刃の切っ先かと思うほど鋭くこちらを突き刺してくるくせに、今はまったくそんなことがないのだ。
だから私も強気で出られたんだろう。

課長は私が暴言を吐いたにも関わらず、怒ってすらいないようだった。

まあ、引いてはいるみたいだけど。

しかし、自分の部屋を知り合いに貸すって、女関係かしら。じゃなくて――――え?

もしかして、課長がここに、住むってことは……ということは、しばらくは課長がご近所さんってこと!?

ええええっ!?

「か、課長ここに住むって……あの、一応聞きますけど、部屋って何号室ですか?」

恐る恐る聞いてみる。なんとなく、予想はついているけれど。

「ああ、二○三号室だ。藤宮のところが二○二号だろ。会社の住所録にそう書いてたしな。っつーわけで、これからしばらくはお隣さんってことだ。ま、一応よろしくな」

や、やっぱり!!

ニヤリと嫌な笑みを顔に浮かべて課長は言った。ものすごく凶悪な顔に見える。

昨日の夜、お隣から聞こえた物音の原因は課長だったのだ。

「確かに昨日は隣がバタバタ五月蠅かったですけど……まさか課長だなんて」

「悪かったなうるさくして」

私の文句に課長が不機嫌そうな顔をする。謝っている態度にはまったく見えない。

だけど本当のことなのだから言われて当然だ。

「いいえ別に。まあ、どこの常識はずれが越してきたのかと思いましたけど。そうですか。課長だったんですか。そうですか……しばらく課長がお隣さん……」

がっくりしたせいで、嫌味を言ったつもりが後のほうはかなり弱々しくなってしまった。今の私は顔に縦線が入っている気がする。仕方がない。それほどショックが大きいのだ。

「分かりやすく嫌そうだな」

私の態度に課長が苦笑する。
そんなの当たり前でしょ、という言葉は飲み込んで、にっこり笑顔を向けてやった。

「いいえ? ですが課長なら、少しの間くらいどこぞのお高いホテルとか、美人なお姉さんのいるマンションとか、行くところはどこでもあったと思いますけど」

わざわざこんなボロアパートなど選ばなくても。むしろそうして欲しかった。いやそうしろ。今からでも。

仮にも役職付き、課長なのだから私とは雲泥の差のお給料を貰っているはずだ。
それに顔だけは良いのだこの男は。しばらくお世話してくれる女の一人や二人、余裕で居そうなものである。

「お前なぁ。一体俺を何だと。元のマンションに戻れるまで、どのくらいかかるかわからないんだよ。事情が込み入ってるんだ。ここは会社から近い上に安いだろ? いくら役職ついてるからって、馬鹿みたいに金使うのは好きじゃないんだよ俺は。もういいだろ、俺のことは。それより藤宮」

「なんですか」

そう言いながら課長は私が手にしている財布を目で指した。

「お前さっき、今からコンビニに行くって言ってたな」

「へ?あ、はい。そうですけど……」

そう答えると、課長は少し考えるような顔をした。

だからなんなの。まさかこのうえパシリ扱いでもする気じゃないでしょうね?

疑いながら課長の顔を窺っていたら、突然、ばさっと目の前に白いものが突きつけられた。

「……え?」

目の前には、課長が提げていたコンビニ袋。

中にはおにぎりとか、サラダとかが入っているみたいだ。この匂いはからあげかしら。食欲をそそる匂いがする。

「え、と?」

意味がわからず課長を見やると、彼はふっと笑って私に袋を押しつけた。

「やるよこれ。俺は買い置きのラーメンがあるから、お前はこれ持って部屋に戻れ。こんな夜中に、女が一人でコンビニなんて行くんじゃねえよ」

「は……?」

残業させた張本人が何言ってんだこいつ、とは思ったけれど口に出すのはやめた。

まだ肌寒い六月の夜。無理して買い物に行くには身体が疲れ過ぎている。

くれるというなら素直に貰っておこう。

「はあ……一応、女扱いしてくれるんですね。こんなに夜遅くなったのも元はと言えば課長のせいな気がしますが……・まあ、ありがたく頂いておきます」

一言余計だなお前は、という課長のあきれた声が聞こえた気がしたけれど、素知らぬフリして私はコンビニ袋を受け取った。

中を覗いてみれば、おにぎりが二個に野菜サラダと、からあげとこれは……チョコプリン?

確認すると、ご飯物の他にチョコ系デザートがいくつか入っている。
板チョコと、小さく四角いのがいっぱい入ってる大入りのと、あ、苺味のスナックチョコもあった。

これを全部食べるとなると胸焼けしそうだ。

「このお菓子って課長のですか?」


と私が言うと、課長は明らかにしまった、という顔をする。

「ばっ……ああ、そうだよ。悪いか」

課長がチョコレート……しかも大入りの。え、この人こんな厳つい顔して実は甘党なわけ?

「いつも偉そうなことを言ってる課長が実は甘党……」

「偉そうは余計だ。それに役職と嗜好は関係ないだろ。いらんなら返せ」

ぼそっと言った私のつぶやきがしっかり耳に入ていたらしい課長は、階段を数段上がってまでせっかく貰った私のコンビニ袋を奪い返そうとする。

なんだか課長の顔が赤いが、もしかして照れているのだろうか?

「嫌です。貰ったんですからもうこれは私のものです」

伸びてくる課長の手をするりと躱して、私の晩御飯を死守する。

だがいかんせん、課長の方が背も高いし手足も長い。それに比べて標準よりサイズの小さい私では、勝ち目は無いようで。がしりと、コンビニ袋が課長の手に掴まれた。

こちらは精一杯背伸びをしていたというのに、私の頭上にある袋を課長は難なく手にしていた。

そんなことより、階段の同じ段に立っているせいで、気がついたら課長の身体がすぐ目の前にあった。

近い。近過ぎる。

「あっ……きゃあっ!!」

密着したことに驚いて、私は思わず仰け反ってしまった。そのせいで、バランスを崩しぐらりと倒れそうになる。

このままじゃ階段から落っこちる。

「っ……」

そう思って強く目を瞑ったはずなのに、私の体は倒れなかった。衝撃のかわりにあったのは、腰のあたりにある大きな手の感触。課長の手だ。

どうやら慌てて支えてくれたらしい。

だけど、これじゃ余計にくっついてしまっている。

落ちかけた恐怖のせいか、はたまた違う理由のせいか、私の心臓はけたたましく騒いでいた。

「馬鹿。危なっかしいんだよ。お前は」

頭の上で、課長の声がした。

助けてくれたのはありがたいけど、その言い草はないのでは。

それに五月蠅く主張する脈拍のせいで、いつもより早く沸点に到達してしまう。

「ば……馬鹿とは何ですか馬鹿とはっ。課長が余計な事をしなければこんなことにはっ」

課長を睨み上げて言う私の腰を持ったまま、課長がふうっとため息をついた。
その吐息に、私の髪が数本揺れる。爽やかなオーデコロンに混じって、男らしい匂いが鼻を掠めた。

「ったく……藤宮は、俺にはいつも反抗的だな」

呆れた様な、でもなぜだか嬉しそうな声が落ちてくる。
声音がいつもより優しいのは、気のせいだろうか。

「か、課長がいつも偉そうなので、逆らいたくなるんです……」

言葉が尻すぼみになったのは、見下ろしてくる視線がやけに熱いと感じたからだ。
優しく弧を描いた瞳の奥に、これまで見たことのない何かが垣間見えた気がした。

これは恐怖? それとも羞恥か、わからない。だけどなぜか今、課長の顔も目も、見続けてはいけない気がした。

慌てて頭を下げれば、目の前にあるのはスーツの胸元。彼のちょうどみぞおちあたりに、私の胸がぴったりくっついている。当たり前だ。腰を抱かれ、引き寄せられているのだから。

いつもならありえない距離に、心臓が早鐘のように鳴り響く。男らしい香りに鼻腔から脳が侵食されていく気がした。

どうして、この人は体勢を変えずにそのままでいるのだろうか。

腰を抱いた手がやけに熱い。いや、熱いのは私? 知りたくない。

そう葛藤していると、頭上で課長が笑った気配がした。

「まぁ、お前の反抗なんて、子犬が鳴き喚いてるみたいなものだけどな」

「は?」

そう笑って言うと、課長は私の腰を抱いていた手を離した。同時に、身体も解放される。
夜の寒さに肌がぶるりと震えた気がした。

「お前、明日も朝早いだろ。とっととそれ食って、寝ろ」

それだけ言って、課長は階段を上がると私の隣の部屋、二○三号室へと入っていった。

バタン、と締められたドアを見つめたまま、私はコンビニ袋を片手に、その場でぼうっと立ち尽くしていた。
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