「捨てられ王妃」と呼ばれていますが私に何かご用でしょうか? ~強欲で身勝手な義母の元には戻りません~

【1】次期王妃、婚約を破棄される(3)

 一月の寒空の下、実家のあるブライトン公爵領へと馬車を走らせる。
 何度も通いなれた道だが、これでもう王宮に戻ることはないのだと思うと、やはりどこか気の抜けたような奇妙な気持ちになった。

 屋敷に到着すると父と母、兄と妹がポーチに立って出迎えてくれた。
 ブライトン公爵家の隣に屋敷を構えるリンドグレーン公爵、すなわちハリエットの息子であり、ブラックウッド王国の第二王子であるギルバート・リンドグレーンの姿もある。

 ギルバートは兄、レイモンドの親友であり、アイリスや妹のジャスミンにとっては幼馴染でもある。彼の母であるハリエットはアイリスの教育係であるとともに母の大親友でもあるため、両家は家族ぐるみの付き合いをしてきた。

 ギルバートの隣にはハリエットも立っていた。
 いつもながら、背筋がピシッと伸びている。

 一月の空気は冷たく、みんな口から白い息を吐いている。
 その白い息とともに、父の口から言葉がこぼれた。

「ヘーゼルダインから聞いたよ」

 父の名はグレアム・ブライトン。
 ブラックウッド王国の筆頭貴族ブライトン公爵家の当主で、今年、四十四歳になる。百八十センチの長身でがっしりとした体つき、いかにも国の重鎮らしい貫禄を備えている。
 栗色の髪はまだふさふさで、それがちょっと自慢の種。
 一見、優しそうな明るい茶色の瞳が、今は鋭く光っている。

「いったい、どういうことだい?」

 兄のレイモンド・ブライトンが続ける。
 ブライトン家の第一令息で、今年二十歳。ノーイックやギルバートとも同じ年だ。
 グレアム卿と同じ栗色の髪と明るい茶色の目を持つ。父と同じく背が高い。
 彼もまた、一見、穏やかそうな目をした青年だが、こちらも穏やかなのは表面のみで、今は、ズーン……と音がしそうな重く不穏な空気を背負っている。

 グレアム卿の隣にはアイリスと同じ銀色の髪と青い瞳を持つ母、公爵夫人であるリリー・スクワイア・ブライトンがいる。
 リリーは今年、四十歳になるが、ほっそりとしていて、美しく、実年齢よりだいぶ若々しく見える。

 リリーが右手を差し出し、アイリスの手を軽く握った。

「お母様……」
「お帰り、アイリス」

 抱き寄せられると肩の力が抜けた。
 ハリエットも隣に来て、軽く背中を撫でてくれる。

「とにかく、中に入りましょう」

 大きく開かれた正面扉から一同はぞろぞろと屋敷に入った。
 大理石のホールを通り抜け、家族用の居間に向かう。
 居間の暖炉には薪が赤々と燃えていた。

「クリスティアンが知らせてきたことは本当なのね」

 リリーに聞かれて、アイリスは目を伏せた。クリスティアンはヘーゼルダインのファーストネームだ。
 カウチに腰を下ろし、運ばれてきたお茶を飲んでいるうちに、ようやく人心地がついてきた。

「ノーイックに、婚約を破棄されたって」
「ええ」
「どうして?」
「私がポンコツだからですって」
「ポンコツ? どういうこと?」

 リリーは青い目を吊り上げた。

「葬儀の招待客の席順がめちゃくちゃだったの」

 アイリスは説明した。
 自分が直して事なきを得たのだが、ノーイックはめちゃくちゃな席順を考えたのがアイリスで、それを訂正したのがディアドラだと言って、アイリスを糾弾したのだと話した。

「またですか?」

 ハリエットが眉間に皺を寄せる。
 リリーの鼻には皺が寄る。アイリスの三つ下の妹、十五歳のジャスミンもリリーと同じように鼻の頭に皺を寄せた。

「なんて、ひどいの! お姉様がかわいそう」
「いいのよ、ジャスミン。気にしてないから」
「でも、婚約破棄だなんて……」
「それも、もういいの。別にノーイックのことは好きでもなんでもなかったし」
「あ、そうなのね」
「今まで頑張ってきたことが活かせなくなったのは残念だけど」

 王妃になったら国民の役に立ちたいと、必死に努力してきた。それが全部、役に立たなくなったのかと思うと本当に残念だ。

「アイリスが去ったことは、大きな痛手になるでしょうね」

 ハリエットが、少し考えこみながら言った。

「ディアドラに王妃の仕事はできないでしょうから。早晩、音を上げますよ」

「でも、ネルソン夫人の評価は高いと聞いていますよ」

 レイモンドが言う。
 ハリエットはため息を吐いた。

「どういうわけか、あの人を評価する人が一定数いるようですが、あの人には実力も人望もありません。アイリスの助けもなしに、第二宮殿の仕事が回せるものですか。いずれボロを出しますよ」
「王宮の人たちや、国民が困ることはないでしょうか」
「どうしても問題になりそうなときは、私が陰で動きます。表の政務はヘーゼルダインがいれば大丈夫でしょう」

 リリーが頷く。

「クリスティアンがいれば、安心ね。彼、元気にしているの?」
「相変わらず不愛想だけど、機械のように元気ですよ」

 ハリエットが答え、リリーは微笑んだ。

「そう。よかったわ」

 十五歳くらいの時から五年間ほど、ヘーゼルダインはブライトン公爵家に身を寄せていたらしい。アイリスは小さかったので、よく覚えていない。

 クリスティアン・ヘーゼルダインは没落した伯爵家の最後の一人で、身寄りがなかった。
 文官の下働きとして使い走りの仕事をしていた時、父の父、先代のブライトン公爵ヘンリー卿の目に止まり、ブライトン家に引き取られたと聞いた。

 二十歳の時、ヘンリー卿の推挙を得て王宮の文官になったのだが、そこから先の彼の出世は彼自身の努力によるものだ。

 ブライトン家で暮らしていた頃、頭が良すぎて言葉が足らず、不愛想になってしまう青年を、リリーは弟のようにかわいがっていたらしい。
 ヘーゼルダインが宰相になった今もよく気にかけている。

 グレアム卿が念を押すように聞いた。

「アイリス。本当にいいのか? ノーイック殿下との婚約を破棄し、王宮を去ることになっても後悔しないかい?」
「ええ、お父様」

 リリーがアイリスを抱き寄せる。

「アイリスがいいのなら、もう手を引きましょう、あなた。事を荒立てても、嫌な思いをするのはアイリスだもの」
「ううむ。しかしなぁ……、このまま黙って引きさがるのも癪ではないか」

 グレアム卿が眉間に皺を寄せる。ジャスミンとレイモンドが「そうよ」「そうだよ」と勢いよく同意した。
 ハリエットが呟くように言った。

「アイリスがいなくなって、困るのはディアドラのほうではないかしら……」
「まあ、もし困らなくても、困るようにしてあげればいいんじゃない?」

 にっこり笑うリリーにグレアム卿が目を丸くする。

「リリー、手を引くのはなかったのか」
「手は引くわよ。騒いだりもしない。でも、手を引いたからには、貸すこともしないわ。金輪際、絶対に。ディアドラがどんなに困っていてもね」

 というか……、とリリーは続ける。

「必要に応じて、他の人たちには力を貸しましょうよ。みんなは困らないようにしながら、ディアドラだけが困るようにしてやるの」
「リリー、おまえ……。相変わらず、笑顔で恐ろしいことを……」

 グレアム卿がちょっと身を引く。

「あら、反対?」
「そんなわけないだろう。アイリスを小ばかにしおって。ディアドラにもノーイックにも目に物を見せてくれる」

 一転、ぐっとこぶしを握ってから、嬉しそうに聞いた。

「で、何をどうするんだね? リリー」
「だから、手を引くだけよ」
「手を引くだけ……」
「とりあえず、放っておきましょう」
「放っておくだけか」

 残念そうなグレアム卿にハリエットが言った。

「放っておくだけで、ディアドラは自滅しますよ」

 リリーは頷き「でも、ちょっと気になることがあるのよね」と呟いた。

「何が気になるんだ?」

 グレアム卿が聞き、一同が注目する中、リリーは軽く笑って首を振った。

「まさかと思うから、まだいいわ。でも、一応、準備は始めてもいいかも……」
「なんの準備だ?」

 今度の問いには、リリーは何も答えなかった。
 
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