紙片に残る面影
序章「派遣先での再会」
新しいオフィスの自動ドアが、静かな音を立てて開いた。
朝の光が差し込むエントランスは、磨き上げられた床が眩しく反射している。黒いパンプスの音が小さく響くたび、結衣の胸は緊張で高鳴った。
(今日から、この会社で働くんだ……)
両親の離婚で苗字が変わり、環境も大きく変わってしまった。新しい名前での人生は、まだぎこちなく、どこか借り物のように感じられる。
受付を通り過ぎ、エレベーターの鏡に映る自分をちらりと見た。痩せてしまった頬。コンタクトが苦手になり、代わりにかけるようになった眼鏡。五年前の自分とは違う。あの頃の面影は、ほとんど残っていない。
ガラス張りの会議室に通され、自己紹介のために社員たちの前に立つ。視線が一斉に集まると、喉がからからに乾いた。
手元の資料を握りしめ、緊張で無意識に指先が動く。紙の端をカリカリとこする音が小さく響いた。昔から直らない癖だった。
「本日から派遣としてお世話になります、篠原結衣と申します。よろしくお願いいたします」
声はかすかに震えていたが、なんとか言い終える。小さな拍手が起こり、胸をなでおろした。
その瞬間、ドアが開いた。
背の高い男性がゆったりとした足取りで入ってくる。深い紺色のスーツがよく似合い、整った横顔は堂々としていた。
「おはよう。今日から新しいメンバーが入ったと聞いている」
低く響く声。
耳が勝手に震えた。
心臓が一瞬止まったかのように感じる。
(……嘘、でしょ)
立ち尽くす結衣の目の前に、五年前に別れた恋人——悠真が現れた。
彼は書類に目を落としながら、一同を見回す。
結衣の前で視線が止まった。
一秒、二秒。
けれど次の瞬間には、淡々とした表情に戻る。
「新しい派遣さんか。期待している」
それだけ言って、椅子に腰を下ろした。
心臓が胸を打ち破りそうになる。けれど、彼は気づいていない。
変わってしまった自分の姿を前にして、彼は何の反応も見せなかった。
(……気づかない。やっぱり……)
名前も違う。痩せた顔も、眼鏡も。五年前に「別れよう」と泣きながら言い捨てて去った彼女の面影など、もうどこにもないのだろう。
会議が始まっても、結衣の耳には上の空で声しか届かなかった。
――五年前。
あの日のことを、思い出さずにはいられない。
大学の図書館。
夕暮れの薄暗い廊下で、彼と親友の美月が抱き合っている姿を見てしまった。
信じていた人に裏切られた痛み。胸の奥に突き刺さったままの記憶。
(あのとき、何も聞けなかった。ただ、逃げるように別れを告げてしまった……)
涙で視界が滲むのを、眼鏡の奥で必死に隠す。
会議中、隣の同僚からメモを渡される。慌てて受け取る指先は、また紙をカリカリとこすっていた。
視線を感じて顔を上げると、悠真がこちらを見ていた。ほんの一瞬、彼の瞳が揺れる。だがすぐに視線は逸らされた。
「……」
その表情に、胸が痛む。
気づいたのだろうか、それともただの錯覚だろうか。
会議が終わり、席を立とうとしたとき、悠真が低い声で言った。
「君、前から……そういう癖があった?」
手元の紙を見下ろしながら、彼が問いかける。
結衣の心臓が大きく跳ねた。
「……え、癖……ですか?」
「紙の端を、ずっといじっていただろう」
「あ、ああ……緊張すると、つい……」
苦笑いでごまかす。
彼は「そうか」と短く答え、それ以上何も言わなかった。
だが、その横顔には微かに迷いの色が差していた。
彼の瞳に浮かんだ影を見た瞬間、胸の奥に眠っていた感情がまた疼き出す。
(お願い……気づかないで。このまま、他人でいさせて……)
俯いた視界で、紙をまたカリカリとこする。
癖はどうしても直せなかった。
けれど、その小さな仕草こそが、過去と今を繋ぐ唯一の証だった。
朝の光が差し込むエントランスは、磨き上げられた床が眩しく反射している。黒いパンプスの音が小さく響くたび、結衣の胸は緊張で高鳴った。
(今日から、この会社で働くんだ……)
両親の離婚で苗字が変わり、環境も大きく変わってしまった。新しい名前での人生は、まだぎこちなく、どこか借り物のように感じられる。
受付を通り過ぎ、エレベーターの鏡に映る自分をちらりと見た。痩せてしまった頬。コンタクトが苦手になり、代わりにかけるようになった眼鏡。五年前の自分とは違う。あの頃の面影は、ほとんど残っていない。
ガラス張りの会議室に通され、自己紹介のために社員たちの前に立つ。視線が一斉に集まると、喉がからからに乾いた。
手元の資料を握りしめ、緊張で無意識に指先が動く。紙の端をカリカリとこする音が小さく響いた。昔から直らない癖だった。
「本日から派遣としてお世話になります、篠原結衣と申します。よろしくお願いいたします」
声はかすかに震えていたが、なんとか言い終える。小さな拍手が起こり、胸をなでおろした。
その瞬間、ドアが開いた。
背の高い男性がゆったりとした足取りで入ってくる。深い紺色のスーツがよく似合い、整った横顔は堂々としていた。
「おはよう。今日から新しいメンバーが入ったと聞いている」
低く響く声。
耳が勝手に震えた。
心臓が一瞬止まったかのように感じる。
(……嘘、でしょ)
立ち尽くす結衣の目の前に、五年前に別れた恋人——悠真が現れた。
彼は書類に目を落としながら、一同を見回す。
結衣の前で視線が止まった。
一秒、二秒。
けれど次の瞬間には、淡々とした表情に戻る。
「新しい派遣さんか。期待している」
それだけ言って、椅子に腰を下ろした。
心臓が胸を打ち破りそうになる。けれど、彼は気づいていない。
変わってしまった自分の姿を前にして、彼は何の反応も見せなかった。
(……気づかない。やっぱり……)
名前も違う。痩せた顔も、眼鏡も。五年前に「別れよう」と泣きながら言い捨てて去った彼女の面影など、もうどこにもないのだろう。
会議が始まっても、結衣の耳には上の空で声しか届かなかった。
――五年前。
あの日のことを、思い出さずにはいられない。
大学の図書館。
夕暮れの薄暗い廊下で、彼と親友の美月が抱き合っている姿を見てしまった。
信じていた人に裏切られた痛み。胸の奥に突き刺さったままの記憶。
(あのとき、何も聞けなかった。ただ、逃げるように別れを告げてしまった……)
涙で視界が滲むのを、眼鏡の奥で必死に隠す。
会議中、隣の同僚からメモを渡される。慌てて受け取る指先は、また紙をカリカリとこすっていた。
視線を感じて顔を上げると、悠真がこちらを見ていた。ほんの一瞬、彼の瞳が揺れる。だがすぐに視線は逸らされた。
「……」
その表情に、胸が痛む。
気づいたのだろうか、それともただの錯覚だろうか。
会議が終わり、席を立とうとしたとき、悠真が低い声で言った。
「君、前から……そういう癖があった?」
手元の紙を見下ろしながら、彼が問いかける。
結衣の心臓が大きく跳ねた。
「……え、癖……ですか?」
「紙の端を、ずっといじっていただろう」
「あ、ああ……緊張すると、つい……」
苦笑いでごまかす。
彼は「そうか」と短く答え、それ以上何も言わなかった。
だが、その横顔には微かに迷いの色が差していた。
彼の瞳に浮かんだ影を見た瞬間、胸の奥に眠っていた感情がまた疼き出す。
(お願い……気づかないで。このまま、他人でいさせて……)
俯いた視界で、紙をまたカリカリとこする。
癖はどうしても直せなかった。
けれど、その小さな仕草こそが、過去と今を繋ぐ唯一の証だった。
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