紙片に残る面影

第1章「面影のない彼女」

 翌日も、結衣は緊張した面持ちでオフィスのデスクに腰を下ろしていた。
 派遣社員として与えられたのは資料整理や簡単なデータ入力。特別な仕事ではないけれど、失敗すれば目立ってしまう。
 それ以上に、心を落ち着けることが難しかった。

(まさか、上司が悠真だなんて……)

 目の前のパソコン画面を見つめながらも、意識は遠い。
 五年前、あの痛みと涙を置き去りにして以来、一度も会うことはなかった。名前も姿も変わった今、彼は自分に気づかない。気づいてほしいような、気づかれたくないような——相反する思いに心が引き裂かれそうになる。

 と、そのとき。
「篠原さん、この資料、数字の転記が間違ってるよ」
 背後から声がかかった。
 振り返れば、悠真が立っていた。黒縁の眼鏡越しに見上げた彼の顔は、昔と変わらない凛々しさを宿している。

「す、すみません! すぐ直します」
「うん。大きなミスじゃないけど、チェックはしっかりね」

 淡々とした口調。
 まるで初対面の部下に接するような態度。
 その自然さが、かえって胸を痛ませた。

(やっぱり……気づいてない)

 彼の視線が自分の奥深くまで届かないことに、安堵と寂しさが入り混じる。

 昼休み、同じ派遣社員の同僚が話しかけてきた。
「ねえねえ、篠原さん。部長、かっこいいよね? 独身なのかな」
「え……」
「噂だと、結構モテるらしいよ。飲み会で誘われてもあんまり乗ってこないって聞いたけど」
 笑いながら囁かれた言葉に、胸の奥がきゅっと縮む。
(……彼に、誰か好きな人がいるの? それとも、もう結婚……?)
 気づけば、指先がまた書類の端をカリカリといじっていた。

 午後の会議。
 結衣が配布資料を準備していると、悠真が隣に立った。
「ありがとう、助かるよ」
「あ、いえ……」
 小さく会釈して俯いたとき、彼の視線が手元に落ちる。
 紙をいじる指先に、ほんの一瞬だけ目を止めた。

「……」
「……?」
 顔を上げると、彼はすぐに視線を逸らし、冷静な表情で会議の進行を始めた。

 会議が進む間も、結衣の心臓は落ち着かなかった。
 もしや彼は気づき始めているのでは——そんな不安と期待が交互に胸を揺らす。

 会議後、廊下で声をかけられる。
「篠原さん」
「は、はい!」
 振り向くと、悠真が腕に資料を抱えながら立っていた。
「緊張してるのかもしれないけど、落ち着いて。君の仕事ぶりは悪くない」
「……ありがとうございます」
 その言葉に救われたように胸が熱くなる。
 けれど続いた言葉は、心を鋭く刺した。
「誰かに……似てるんだよな。仕草が」

 結衣の呼吸が止まる。
 笑顔を必死に作りながら答える。
「よ、よく言われます。誰かに似てるって」
「そうか……」

 悠真はそれ以上追及しなかった。
 だがその目には、迷いと探るような光が宿っていた。

 デスクに戻ると、結衣は大きく息を吐き、眼鏡の奥でまぶたを伏せた。
(……このまま、気づかれない方がいい。だって、あの別れは……私が決めたんだから)

 そう思っても、胸の奥の痛みは消えなかった。
 彼の近くにいるたび、五年前の傷と共に、確かにまだ残っている想いが疼き出す。
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