その優しさに溺れる。〜一線を超えてから、会社の後輩の溺愛が止まらない〜
(……ずるい人)
気づけば、店内はすっかり静まり返っていた。ラストオーダーを告げる店員の声で、ようやく時計に目を向ける。
針は日付が変わる直前を指していた。

「……そろそろ、出ましょうか」

「……うん」

店を出ると、夜風がふわりと頬を撫でていく。ほてった頬と、酔いの余韻を少しだけ冷ましてくれる。
終電まで、あと十五分。
走れば間に合う距離なのに、ふたりの足は自然と止まっていた。
──この時間が、終わってしまうのが惜しくて。

「……ねぇ、橘くん」

「はい」

「……あの夜のこと。……ごめんね」

不意にこぼれた言葉は、自分でも予想していなかった。胸の奥に引っかかっていた棘のような後悔が、するりと口をついて出た。
湊はすぐには返事をしなかった。
それでも、そっと落ち着いた声で応える。

「……謝られることじゃないですよ。あれは、お互いが望んだことですから」

「でも……私、あのとき……ただ、寂しかっただけで……
偶然その場にいた橘くんに、甘えてしまっただけで……」

自分でも苦しくなるほど、言い訳のような言葉しか出てこない。けれど、湊は首を横に振り、まっすぐな目で見つめてきた。

「……それでも、俺はうれしかった。……本当は、ずっと、そうしたかったから」

心臓が跳ねる。視線を上げると、彼の瞳が真っ直ぐにこちらを射抜いていた。
誠実で、強くて、そして……あたたかい。

「詩乃さんが、ただ酔ってただけなら。
……俺は、キスも、抱くことも、絶対にしませんでした」

「……っ」

「今だって、帰したほうがいいって……わかってます。
でも、もう聞きますね」

少し低くなった声が、空気を震わせる。

「詩乃さん……さっきから、俺をどんな目で見てるか、自分でわかってますか」

「え……?」

「“欲しい”って、そう言ってる目をしてる」

「なっ……」

頬が熱くなるのがわかる。想像するだけで頭が真っ白になりそうだった。

「詩乃さんが望むなら……俺は、いつだって応えます」

まるで主導権はすべて私にあるかのように穏やか。
でも湊の目はすでにすべてを見透かしている。
(……ズルい)
理性は「だめだ」と何度も言っているのに。その視線に、心が抗えなくなっていく。
“拒める余地”を与えながら、ちゃんと“惹かれる余白”を残してくる。
——私が、もうあの日の熱に囚われていることも、きっと彼にはわかっている。
そっと差し出された湊の手。

「……行きますか。俺の部屋」
 
その声は優しくて、でも、もう後戻りはできないと告げていた。
静かな沈黙の中、鼓動だけがはっきりと響く。
不安も、罪悪感も、まだ消えない。
それでも──その手のぬくもりが、どうしようもなく恋しい。
——この夜を越えたら、きっともう、戻れない。
でも、もう戻る場所にも未練はなかった。

「……うん」

小さく頷くと、湊の手がしっかりと詩乃の手を包み込む。あたたかくて、どこまでも優しい手。
迷いのないその手に導かれるように、ふたりは静かに歩き出す。
街の灯に溶けていくふたつの影。
触れ合った手のひらが、心の奥の氷を少しずつ溶かしていく。
——この夜が、終わりの始まりになるとしても。このぬくもりに、溺れていたいと思った。
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