その優しさに溺れる。〜一線を超えてから、会社の後輩の溺愛が止まらない〜

 「……〇〇商事さんとの打ち合わせ資料、修正入れておきました。確認お願いします。」

昼下がりのオフィス、橘が落ち着いた声でファイルを差し出す。

「ありがと。助かる」

詩乃はいつも通りの声で返し、資料に目を落とす。
パソコンに集中するふりをしながら、視界の端で彼の指先がわずかに揺れるのに気づいた。
会話のトーンは業務的。端から見れば普通の先輩と後輩。
けれど――指が触れそうになるほど、意識はそこに向かう。
自然に、気づかれない程度に、指先が僅かに触れ合う。

「細かい文言、いくつか変えてます。気になるところがあれば後で修正入れますね」

「うん、大丈夫。橘くんの調整、的確だし」

「……ありがとうございます」

わずかに口元をゆるめた彼の笑みが、誰にでも向けるものじゃないことを詩乃は知っている。
それを悟られないように、手を重ねて気持ちを封じ込めた。
(ここでは、ちゃんと先輩と後輩でいなきゃ)
ベッドで抱きしめられた記憶が、まだ身体の奥に残っている。
けれど今は、そんなぬくもりはないかのように、ふたりは業務に没頭する。
昼休み、同僚たちがランチに出る中、スマホが震えた。
《今日、詩乃さんの家、行っていいですか?》
文面はいつも通りでも、胸の奥を掻き回す甘さがある。
数秒、無意味に画面を見つめたあと、短く返信する。
《いいよ》
淡々とした文字。それ以上は添えられない。
(名前のないこの関係のまま、今日もまた──)
昼休みが終わる頃、詩乃はもう、夜に触れる彼の体温を思い描いていた。
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