開国のウィストアギネス 〜出戻り巫女が星海の聖女と呼ばれるまで〜

第13話 覚醒


 水平線に薄く雲がかかっている。
 その雲が紅に染まりつつある。
 天頂には月と星があるが、数刻のうちに薄い青に塗り変わるはずだった。

 船首。
 重い鉄の鎖が、碇口《いかりぐち》から海に落とされている。
 その碇口の横に、オリアスは立たされている。

 両手首が後ろできつく縛られている。足首も同様だ。
 碇口は甲板と段差がないから、軽く押すだけで、彼は海に落ちることになる。
 海面から背丈の十倍ほど。落下の衝撃だけでも、無事で済むとは思えなかった。

 横には艦の乗組員がひとり。
 囲むように、数十人が見守る。
 航帝《こうてい》、ゼルヘムの姿もある。
 ウィスタは全員の前、オリアスとの間に立たされている。

 オリアスは宣告を受けたあと、問答無用で拘束された。すぐにウィスタと引き離されたため、会話も目配せも、一切できなかった。
 ウィスタは丁重に、しかし有無を言わさぬ圧力をもって連行され、監視された。
 二人が再会したのは甲板に引き立てられてからである。

 ここ、シア航国《こうこく》の母艦《ぼかん》に乗り込んだのは、オリアスが航帝と交渉するためである。が、会話自体が成立しない現在、できることはなにもない。オリアスの迂闊《うかつ》を責めることは簡単だったが、それを冥土《めいど》で行うか、生きていて行えるかが、問題だった。
 
 「よろしいか、巫女どの」

 ゼルヘムがウィスタの背に声をかけた。
 ウィスタは、身体の前で両手のひらをあわせ、指を組んでいる。霊珠《れいじゅ》への祝福の姿勢であるが、意識しているわけではない。動けない。足はすくみ、小刻みに震えている。唇を薄く開け、荒く早い呼吸をずっと続けている。

 考えろ。
 考えろ。
 なにができる。
 わたしに、なにができる。
 
 オリアスは、目隠しをされていない。
 ウィスタのほうを、じっと見ている。
 むろん、彼から見て、ウィスタの背後には航帝を含む多数がいるから、なんの相談もできはしない。
 それでも、オリアスは、告げていた。
 ウィスタを信じていることを、髪と同じ藍色の眉を動かさないことで、瞳をそらさないことで、震えを、隠すことで。
 
 考えろ。
 考えろ、考えろ、考えろ。
 あの日、海の底で。
 昨夜、神殿で。
 なにがあった。
 わたしは、なにをした。
 
 「巫女どのは、そこから動いてはならぬ。よいな……では」

 ゼルヘムが軽く手をあげた。
 乗組員がオリアスの背に手をかける。

 ウィスタの心臓が跳ねた。
 考えることを、停止した。
 停止は、魂が命じた。

 護りたい。

 護りたい。
 このひとを。

 護る。

 今度こそ。
 もう、待たない。もう、見送らない。
 諦めない、わたしが……。
 護る!

 きぃん。
 金属を擦るような鋭い音。

 ウィスタの胸が淡く発光している。
 髪が質量を失ったように、わずかに浮き上がる。
 組んでいた手のひらを解き、胸にあてる。
 
 ああ。そうか。

 光がひとつ、線をつくっていた。
 その光線は、オリアスの胸に伸びていた。

 オリアスの方へむかい、足を進める。
 背後がざわめく。

 「巫女どの。動くなと、申した」

 ゼルヘムが鋭く言葉を投げた。が、ウィスタは止まらない。航帝のまわりの男たちは、動いてよいかを逡巡している。
 航帝は、頷いた。
 乗組員が数人、走り寄る。
 ウィスタの背にその手が触れる。
 オリアスの横にいた乗組員も、ふたりの間に立ち塞がる。
 ウィスタは肩を掴まれた。
 が、彼女の手もまた、オリアスの腕に届いている。間に立つ乗組員を押し除けるように、強く引く。
 足首の自由がきかないために倒れ掛かる藍色の髪の男を、抱きしめた。
 胸が、触れる。

 刹那。
 巨大な鯨の声、あるいは、遠くで叫ぶ女の声。
 連想するならそうした音だが、違う。
 この世で再生されるはずがない音が、シア航国母艦隊の全域を、覆った。

 艦の直下、海底から、八本の光が放射された。
 その先端がどこまで届いているのか、人間に視認することはできない。
 光の刃は回転した。巨大なそれは、海のなかから、艦を真昼より眩しく照らした。

 轟音が、遅れてやってきた。
 母艦の左右の中型艦が、隆起した海面に持ち上げられる。艦首が水面を離れ、あるいは船側が天を向き、近い艦どうしは接触した。
 母艦も激しく揺られ、甲板のほぼ全員が転倒した。構造物が軋む。機材が破壊され、あちこちから激しい音が響く。

 オリアスとウィスタのみ、立っている。
 ただし、足が甲板についていない。
 揺られることで生じた波は砕け、飛沫となって二人を包んだ。包んだ飛沫は球となり、光を帯びて、浮いている。
 オリアスを拘束する綱も、断ち切られていた。水と光の作用によるが、ウィスタはそれを意識していない。

 いま彼女が見ているのは、ただ、目の前の男の瞳である。
 音が消えた世界で、藍色の瞳の意味を、考えている。
 オリアスもまた、彼女の目を見つめている。
 なにを思い出そうとしているのか、互いに、自分を理解できていない。
 それでも、柔らかく、温かく、遥かに遠い記憶の裾に触れかけていることは、二人の魂が教えてくれている。

 ただいま。

 なぜ、そんな言葉を選んだのか。
 光の中で髪を揺らしながら、オリアスは、自分が呟いた言葉を何度も何度も、胸のなかで反芻した。
 ウィスタは不思議なものをみるような、遥かな雲をみるような目で、オリアスをじっとみている。それでも、両手を相手の背にまわして、微かにわらった。

 おかえりなさい。

 光が、弾けた。
 
 波浪の高さは各艦の舷側に等しい。だから、隊形などはとうに崩れている。転覆した艦がないのは奇縁といえた。いま、そうした波が、一斉に消失した。どんと、落ちるように凪いだ水面に全艦が放り出される。

 海面からふたたび光が放射され、霧となっていた飛沫のなかで、形象をとった。巨大な星が頭上に描かれ、ゆらりと回転し、ひときわ強く発光して、天に飛んだ。

 薄くかかっていた霧と雲が払われた。
 宵明けだというのに、深い碧紺の空に、おびただしい星が出現した。
 星の海に、艦隊は静まり返って、浮いている。

 ウィスタとオリアスを包んでいた球が、ふいに失せた。
 わずかな高さではあるが、ふたりは甲板に落下し、腰を打った。

 「あいたたたた」

 ウィスタは腰をさすりながら周囲を見回した。風景が変わっている。乗組員たちは転がり、気絶しているものが多い。甲板の構造物も倒れ、あるいは破損している。

 「……わ……」
 「……なんだ、こりゃ……」

 オリアスもふらふらと立ち上がり、呆然としている。

 「……君が、やったんだよな」
 「……なの、かな……」
 「まちがいない……君だ。どうやったんだ。どうやって、ちからを……」
 「それは……」

 護りたい。
 海底でも、神殿でも、そうして、今も。
 この男を、護りたい。
 そう願ったときに、ちからは訪れた。
 そうして、胸と胸を……紋章と、紋章を。
 
 ウィスタは答えを得つつあるが、あれだけ見つめあったオリアスの目が再び彼女を捉えたときに、それを隠すことを決断した。頬が熱く、直接、相手の顔を見ることができない。

 「……さあ、よくわかんないけど、できるようになった、かも……?」
 「な、なんだ、それは……」

 その後もいくつか問答をしたが、ウィスタは交わした言葉の意味を訊かれなかったことに安堵した。彼女自身にも正解はわかっていない。
 オリアスはしばらく、納得のゆかない表情をしていたが、艦隊、そして自分の船の状況を確認することを優先した。ウィスタも後ろをついてゆく。

 艦内は、転落者なり死者こそ出なかったものの、負傷していない者の方が少なかった。
 負傷者には、航帝、ゼルヘムも含まれていた。
 甲板で転倒し、波に打たれ、構造物に衝突したらしい。脇腹と足を骨折しているようだった。薄く意識があるものの、会話も困難な状況だった。
 床に転がされて介抱される父親を、オリアスは物言いたげに見下ろしたが、無言のまま踵を返した。
 
 艦橋の上部、操舵室に登ったとき、周囲の艦から照明信号が送られてきた。オリアスはそれを読み解き、指示をくれと言ってきている、とウィスタに説明した。どの艦も混乱に陥っているようだった。このまま聖ルオ国へ進むのか、一旦引くのかを訊いてきているのだ。

 オリアスが黙って考えを巡らせていると、外、甲板のあたりから、声が聞こえた。ひとりではない。何人かが、同じことを言っている。
 操舵室から鐘楼《しょうろう》へ出る。甲板の乗組員たちが、こちらを見て、なにかを叫んでいる。

 星の巫女、と、聞こえた。
 声が徐々に大きくなる。詠唱のようなものが混じった。ウィスタにはわからないが、シア航国に伝わる祈りの聖句だった。
 船乗りは、陸のものより、理性を重んずる。が、理性を超えたものに対する畏れもまた、強かった。彼らは本能で、自分たちがいま、誰に従うべきかを理解していた。

 「……結果的に、うまくいった、というわけだ」

 オリアスはひとりごちて、ふう、と息を吐いた。

 「艦隊は引き上げる。航帝……親父も、しばらくは動けまい。それに、こいつらが証言するだろう。聖ルオ国に手を出そうとすると、災いが起こる、と。誰も何も言えまい」
 「……」
 「いろいろ危険な目に巻き込んでしまって、本当にすまなかった。これで終わりだ。後で君を送る船を……」
 「あなたは、皇嗣《こうし》さま、なのよね」

 ふいに言葉を遮られ、オリアスはウィスタの方に振り向いた。

 「あ、ああ……一応、な」
 「航帝陛下がいなくても、あなたがいれば、みんなは動くの?」
 「……まあ、軍規としては、そうなっているが……」
 「そう」

 ウィスタはそういい、伸びをした。
 はあっ、と声を出しながら、手を下ろす。

 「じゃあ、行きましょうか」
 「……どこ、へ」

 ウィスタは振り向かず、遠くを指差した。
 聖ルオ国、彼女の祖国の、方角だった。

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