エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
 芙美子さんから、権利書と売買契約書が書留で届いた数日後。正俊さんの、2回目の新潟出張の前日だった。夕食とお風呂を済ませて、私はローテーブルで勉強をしていた。正俊さんはボストンバッグに出張用の着替えを詰めていた。

 変わり映えのない夜の中で、正俊さんのスマホが鳴った。

 メッセージではなくて、電話だった。正俊さんは着信画面を見て、少し躊躇う様子を見せたあとに、スマホを持って廊下に出た。通話の時間自体は、2分もかかっていなかったはずだ。

 リビングに戻ってきた彼は、顔色を蒼白にしていた。どうしましたかと慌てて駆け寄ったら、彼は視線をふるわせたあと、はっとしたように微笑んだ。

「母からだった。父が、盲腸で手術をするという話だったけど」

 とても嫌な予感がして、はい、と応じる私の声は少し上擦った。

「詳しく検査をしてみたら、別の場所に腫瘍が見つかったって話で。少し大掛かりな手術になるって」

「そんな……」

 私は大きくうろたえる。だけど正俊さんは、ボストンバッグの荷造りを再開した。

「正俊さん……」

 言葉を掛けたかったのに、何が正しい言葉なのかわからなかった。お父様に会いに行かないんですかと問うことは簡単だ。――だけど。

 ――俺が顔を見せたりしたら、お父さんのお身体に障ります。

 そう言い切った彼の声を覚えているから、そんなことを簡単に問うことはできない。

 彼が荷造りを済ませるのを、ただ見ているだけしかできなかった。私の方が泣きたい気持ちになったとき、私を見た正俊さんが苦笑した。

「……ごめん。そんな顔をさせてしまって」

 彼は私のそばまでやってきて、私の髪を撫でた。
 ローテーブルの前で、隣り合って座る。ひどくやるせない沈黙のあと、正俊さんは口をひらいた。

「意地を張っているだけだって、本当はわかってる」

 まるでひとりごとみたいに、彼は言った。

「事務次官になったら父に会いに行くとして……」

 正俊さんの声が揺らぐ。

「もし本当に事務次官になれたって、それは20年も先の話だ。そのときには父はもう……もしかしたらこの世にいないかもしれないのに」

 彼はそう言って面差しを伏せた。

「正俊さん、」

「ごめん。今日は先に寝る。……明日は出発が早いから」

 何もかもを遮断する口調でそう言って、正俊さんは寝室へ向かった。
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