エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
カチリ、と秒針が進む音が聞こえる。世界は夜へと落ちてゆく。色が曖昧な世界の中で、私はただ呆然と座っていた。
芙美子さんと話すとき、私の意思はいつも透明になる。それなら、私が記す広瀬真理菜という名前に、いったいどれほどの価値があるのだろう。
秒針の響きは、きっと寸分の狂いなく夜を進んでいった。かちゃり、と向こうで音がして、正俊さんが帰宅する時間になっていたのだと気づく。
私は慌てて立ち上がった。暗いリビングでずっと座っていたなんて、忙しい彼に余計な心配をかけてしまう。
だから、壁のスイッチの方へ駆けようとしたら、つま先が絨毯に躓いた。私は大きくバランスを崩して、床に膝をついたところで、リビングの扉が慎重にひらいた。
「真理菜さん……?」
ぱっ、と部屋の灯りがつく。蛍光灯じゃなくて、暖かみのある白色照明なのに眩しくて、私は思わず目を瞑った。
「真理菜さん!?」
正俊さんが私に駆け寄る足音。目をひらいたら、彼と視線が重なった。彼は眉根を寄せて、私の顔を覗き込んだ。
「何があったの。具合でも……」
ひどく焦った様子の彼に、ゆるゆると首を横に振る。
大丈夫ですと答えようとした声が濡れた。正俊さんの顔を見たら、堪えるつもりだった感情がこぼれた。
「家を……売ることになりました。サインも、しました」
「……家?」
正俊さんが、丁寧な声で聞き返す。私は呆然と頷いて、頬を伝う涙の感触を自覚しながら続けた。
「本棚はもうないけど……お父さんと一緒に暮らした、私が育った家でした」
涙で、正俊さんの面差しが不明瞭ににじむ。
芙美子さんと話すとき、私の意思はいつも透明になる。それなら、私が記す広瀬真理菜という名前に、いったいどれほどの価値があるのだろう。
秒針の響きは、きっと寸分の狂いなく夜を進んでいった。かちゃり、と向こうで音がして、正俊さんが帰宅する時間になっていたのだと気づく。
私は慌てて立ち上がった。暗いリビングでずっと座っていたなんて、忙しい彼に余計な心配をかけてしまう。
だから、壁のスイッチの方へ駆けようとしたら、つま先が絨毯に躓いた。私は大きくバランスを崩して、床に膝をついたところで、リビングの扉が慎重にひらいた。
「真理菜さん……?」
ぱっ、と部屋の灯りがつく。蛍光灯じゃなくて、暖かみのある白色照明なのに眩しくて、私は思わず目を瞑った。
「真理菜さん!?」
正俊さんが私に駆け寄る足音。目をひらいたら、彼と視線が重なった。彼は眉根を寄せて、私の顔を覗き込んだ。
「何があったの。具合でも……」
ひどく焦った様子の彼に、ゆるゆると首を横に振る。
大丈夫ですと答えようとした声が濡れた。正俊さんの顔を見たら、堪えるつもりだった感情がこぼれた。
「家を……売ることになりました。サインも、しました」
「……家?」
正俊さんが、丁寧な声で聞き返す。私は呆然と頷いて、頬を伝う涙の感触を自覚しながら続けた。
「本棚はもうないけど……お父さんと一緒に暮らした、私が育った家でした」
涙で、正俊さんの面差しが不明瞭ににじむ。