エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
その日も、正俊さんと一緒に朝食をとって、幸せなまま家を出た。いつもと同じように仕事をして、夕食用の食材を買って、正俊さんと暮らすマンションに戻る――いつもと同じ一日になると思っていた。
だけど、退勤してすぐにスマホのバイブレーションが鳴った。メッセージじゃなくて、電話だった。電話なんて珍しいな、と何の気なしにバッグからスマホを取り出して、画面を見た瞬間に息が止まった。
指定されたホテルのラウンジには、真紅の絨毯が敷き詰められていた。天井にはキラキラしたシャンデリアがあって、仕事用の着慣れたジャケットとスカートの私は、この空間からやんわりと拒まれているような感じがした。
奥の席に座っていた芙美子さんは、最後に会った日と変わらずに綺麗だった。長い睫毛が眼差しに色香をまとわせて、緩やかな弧を描くくちびるを鮮やかなルージュが彩っていた。装いも、光沢のあるルビーレッドのワンピースがよく似合っていて、上質な輝きを放つピアスやネックレスも全部、芙美子さんの佇まいすべてが、咲き誇る紅薔薇みたいだった。
「真理菜ちゃん! 久しぶりに会えて嬉しいわ」
芙美子さんは艶やかなくちびるを持ち上げて笑った。
「元気そうでよかったわ。図書館で働いているのよね?」
「は、はい……」
私がぎこちなく笑うと、「座って座って」と芙美子さんが私を促す。私は、柔らかな一人掛けソファにおずおずと座った。
すると、絶妙なタイミングでウェイターさんがメニューを持ってきてくれた。受け取ろうとすると、
「あ、いらないわ」
芙美子さんが笑顔で制す。
「この子は水が好きなの。水を持ってきてくれたらいいわ」
えっ、と私は肩を跳ねさせる。ラウンジに入って、飲み物を注文しないなんて。
私の認識ではマナー違反だから、メニューを受け取ろうとした姿勢のままうろたえる。でも、芙美子さんはにっこりと笑っている。
ウェイターさんは「かしこまりました」と微笑んだだけで、他には何も言わなかった。私は今すぐに消え入りたいような気持ちで、せめて身体を縮こめる。
「お姉ちゃんと、虎ノ門のビルで会ったみたいね」
芙美子さんは、笑顔のまま私に問うた。「はい」と私が頷くと、芙美子さんは目を大きくして、驚いたときの顔をする。
「真理菜ちゃんも、ああいう場所に行くのね」
「あの日は、たまたま」
「へえ〜? 図書館って儲かるのねぇ」
うふふと笑う芙美子さんに何と返せばいいのかわからなくて、言葉に詰まったところで、ウェイターさんがグラスに入ったお水を持ってきてくれた。
「あ、私はシャンパンを追加するわ。グラスね」
芙美子さんは飲みかけのシャンパングラスを持ち上げた。ウェイターさんは丁重なお辞儀で応じる。
ラメ入りのジェルネイルで彩られた指先で、芙美子さんがグラスを口元に運ぶ。グラスのふちには、ルージュの跡がいくつもついている。
ほんの微かなシャンパンの匂いに酔ったみたいに、胃の奥が気持ち悪くなってきた。
だから、なるべく早く用件を終わらせて帰ろうと思った。芙美子さんは電話で、私にお願いがあると言っていたから、まずはそれが何なのか尋ねなければ。
「芙美……お母さん。あの、私にお願いがあるって、何でしょうか」
硬い声で私が切り出すと、芙美子さんは目を丸くした。そのあとに、「あははっ!」と可笑しそうに笑う。
「真理菜ちゃん、そんなに緊張しなくて良いのよ。すっごく簡単なお願いだから」
シャンパングラスをテーブルに置いた芙美子さんは、隣のソファに置いてあったバッグを手元に引き寄せる。
ややあって、私の前にいくつかの書類が差し出された。
「これにね、サインをしてくれたらいいの」
子供に甘いお菓子を与えてあやすような声で、芙美子さんはそう言った。
だけど、退勤してすぐにスマホのバイブレーションが鳴った。メッセージじゃなくて、電話だった。電話なんて珍しいな、と何の気なしにバッグからスマホを取り出して、画面を見た瞬間に息が止まった。
指定されたホテルのラウンジには、真紅の絨毯が敷き詰められていた。天井にはキラキラしたシャンデリアがあって、仕事用の着慣れたジャケットとスカートの私は、この空間からやんわりと拒まれているような感じがした。
奥の席に座っていた芙美子さんは、最後に会った日と変わらずに綺麗だった。長い睫毛が眼差しに色香をまとわせて、緩やかな弧を描くくちびるを鮮やかなルージュが彩っていた。装いも、光沢のあるルビーレッドのワンピースがよく似合っていて、上質な輝きを放つピアスやネックレスも全部、芙美子さんの佇まいすべてが、咲き誇る紅薔薇みたいだった。
「真理菜ちゃん! 久しぶりに会えて嬉しいわ」
芙美子さんは艶やかなくちびるを持ち上げて笑った。
「元気そうでよかったわ。図書館で働いているのよね?」
「は、はい……」
私がぎこちなく笑うと、「座って座って」と芙美子さんが私を促す。私は、柔らかな一人掛けソファにおずおずと座った。
すると、絶妙なタイミングでウェイターさんがメニューを持ってきてくれた。受け取ろうとすると、
「あ、いらないわ」
芙美子さんが笑顔で制す。
「この子は水が好きなの。水を持ってきてくれたらいいわ」
えっ、と私は肩を跳ねさせる。ラウンジに入って、飲み物を注文しないなんて。
私の認識ではマナー違反だから、メニューを受け取ろうとした姿勢のままうろたえる。でも、芙美子さんはにっこりと笑っている。
ウェイターさんは「かしこまりました」と微笑んだだけで、他には何も言わなかった。私は今すぐに消え入りたいような気持ちで、せめて身体を縮こめる。
「お姉ちゃんと、虎ノ門のビルで会ったみたいね」
芙美子さんは、笑顔のまま私に問うた。「はい」と私が頷くと、芙美子さんは目を大きくして、驚いたときの顔をする。
「真理菜ちゃんも、ああいう場所に行くのね」
「あの日は、たまたま」
「へえ〜? 図書館って儲かるのねぇ」
うふふと笑う芙美子さんに何と返せばいいのかわからなくて、言葉に詰まったところで、ウェイターさんがグラスに入ったお水を持ってきてくれた。
「あ、私はシャンパンを追加するわ。グラスね」
芙美子さんは飲みかけのシャンパングラスを持ち上げた。ウェイターさんは丁重なお辞儀で応じる。
ラメ入りのジェルネイルで彩られた指先で、芙美子さんがグラスを口元に運ぶ。グラスのふちには、ルージュの跡がいくつもついている。
ほんの微かなシャンパンの匂いに酔ったみたいに、胃の奥が気持ち悪くなってきた。
だから、なるべく早く用件を終わらせて帰ろうと思った。芙美子さんは電話で、私にお願いがあると言っていたから、まずはそれが何なのか尋ねなければ。
「芙美……お母さん。あの、私にお願いがあるって、何でしょうか」
硬い声で私が切り出すと、芙美子さんは目を丸くした。そのあとに、「あははっ!」と可笑しそうに笑う。
「真理菜ちゃん、そんなに緊張しなくて良いのよ。すっごく簡単なお願いだから」
シャンパングラスをテーブルに置いた芙美子さんは、隣のソファに置いてあったバッグを手元に引き寄せる。
ややあって、私の前にいくつかの書類が差し出された。
「これにね、サインをしてくれたらいいの」
子供に甘いお菓子を与えてあやすような声で、芙美子さんはそう言った。