美術室の花園
河津桜のベッド
次の週の火曜日の夜に、瑞穂に会った。
彼女に会うまでの時間で、今日はあまり綺麗だと思うものと、出会えなかった。唯一綺麗だと思えたのは、ルールブルーの空だけだった。日の出前と日の入り前に、空が濃い青色に染まる時間帯のこと。英語ではブルーアワーというらしいが、俺はフランス語の「ルールブルー」の名前のほうを好んでいた。今日の空は、一段と澄み切った青をしている。
この青一色に、世界が染められた夜に変わりゆく時間のはざまに、永遠にたゆたっていたかった。
瑞穂が選んだバーは、さくらんぼが爆ぜたような香りが、そこかしこに漂っていた。
中央に置かれた、蓮の形をしたライトが出すあかりが、うす紅や紫の花弁が散っているようなひかりを、白い壁へとまだらに映している。
店員が食器を重ねる音が、氷と氷がぶつかったような澄んだ高さとなって鳴る。俺たちの間に時折生まれる、違和感のある沈黙の間を舞って。
ひとに会いたいという欲求は、昔からあまり深くなかった。孤独をくるしいと思うことはなかった。ただ誰かに呼ばれれば、蛇口をひねれば生まれる水のように、淡々と会うだけだった。
瑞穂は隣の席で、上体をカウンターテーブルに伏せて、少し左右にゆらしながら、俺と前に会った日の後から、今日俺に会う日までに自分の身に起きた出来事について、たのしそうに語る。
俺の話を聞くのではなく、自分の話がしたいから、俺を呼んだのだろう。いつもこの女はそうだった。
もうそれに飽きることも、嫌に思うこともなく、ただ慣れて、時間の流れに身を任せるだけだった。
今宵の瑞穂は、黒いネックウォーマーの上に、カーキ色のキャミソールワンピースを着ていた。
瑞穂の背中に、かすかに糸が浮いている。出る時に気付かなかったのか。いつも黒や灰色など、地味な色の服ばかり着てくる女だった。それが似合っているかと言われれば、素直にうなずけない。もっとあかるい単色を着たほうが、白い肌と黒髪に合っていいんじゃないかと思っていたが、口に出すことはなかった。抱けば一緒だからだ。いつしかそれだけが、この女に会う目的になってしまった。腕につけた銀のバングルと、丘のように服の下から浮きあがった肩甲骨だけが、瑞穂の全身の中では、良いと感じた。
顔のラインで揃えた瑞穂の黒髪がゆれて、俺の肩にかすかにふれては離れてゆく。
横で一方的に喋る瑞穂のほうを見ずに、少しうつむいてグラスを片手に持ち、カクテルの味を確かめていた。あまいのか、からいのか、わからない。言葉を生み出すとしたら、どっちにこの味を持っていくか。描写するか。女の声を右耳で聞いているふりをしながら、思考のほとんどはそちらに転がっている。
「ねぇー、聞いてんの」
「あ? ああ」
「嘘ばっかり。カクテルの味と、あたしと前にしたキス、どっちが美味しかったの」
二拍置いて「カクテル」、とちいさくつぶやくと、「サイテー」と肩をばんと叩かれた。
くちびるにつけたグラスが、歯に強く当たってじんと痛む。
でも俺は怒らない。自覚したことはないが、感情的にならないのが、俺の長所だと友達に言われたことがある。
カクテルは飲むごとに深い味わいになった。人工的な濃いピンクが、苺を真似た甘酸っぱい味が、舌の上で爆ぜるスパークリングが、からだの中に残った昼の感覚を、上から塗り足して忘れさせてくれる。
頭の中に花霞がかかったように、そこから記憶が朧になった。何を目にしても輪郭が溶けて、背景と混ざって曖昧な乳白色の淡さになる。
そのままバーで、しばらく瑞穂の仕事の愚痴に付き合った気がする。
会社の同じフロアのチームの主任の悪口や、ひとつ下の階で仕事をしている、別チームの課長と契約社員の女が不倫していることなど、この女が溜めているのは、性欲だけではないことを、行為の前に飲むたび思い知らされる。言葉で自分の中に溜まったものを吐いているのかもしれない。そうやって吐き出していないと、この女のセックスはもっとねちっこく、執念深いものになってしまうのかもしれない。
青や黄色のあかりが、薄紅色に霧がかって、目の前を大きく覆っては、溶けて過ぎ去ってゆく。
俺はゆれていた。
瑞穂に腕を取られ、彼女に重力を任せて。
水の中をたゆたう葦のように。ただ自分にふれたものに身を任せて。自分で決断しないで。
もうそういう風にしか、恋愛ができなくなっていた。
いつの間にか、俺は瑞穂とセックスしていた。抱いたのか抱かれたのかよくわからないセックスだった。汗ばんでいたのは、俺なのか、瑞穂なのか。
ペットボトルに入った炭酸を無理やり振って、蓋を取って放ったような体液が、ショッキングピンクのシーツの上に散らばっていた。
河津桜。
ぼんやりとした頭で直感的に思う。いつかの伊豆旅行で見た、河津桜の花の色と一緒だった。薄紅よりも華やかな濃いピンク。恋愛の嘘を溶かして、誤魔化すようなあまい色。
肌の感覚が、脚の小指の先から戻ってきて、全身がしっとりと湿っていることに今さら気付く。いや、昨日の夜から感覚がずっと朧だ。頭の中がぼやぼやしている。
瑞穂が何か言っている。
俺に向かって脚を大きくひらいている。性器の近くの太ももに、ほくろが縦に点々と並んでいるのさえ見える。瑞穂も、全身を汗で染めて湿っていた。白い電球を下から当てられた河津桜の花弁のように、ましろい肌に、はっきりとしたピンクの影ができている。脚の間にある女の部分は、雨上がりの六月の朝の窓のように濡れて、荒い息を吐いている彼女のくちびるとひとしく、ひらいたり閉じたりしてうごめいていた。
俺は瑞穂の脚と股に目をうつしながら、遠い日の出来事が間にうすぼんやりと立ち現れているのを感じていた。雲間から差し込んだ紗のようなうすい陽光が、雨上がりにさっと差し込む感覚と似ていた。
高二の秋、奈保美が俺に向けてアトリエで脚をひらいていた。張りのある瑞々(みずみず)しい肌と、長い脚。健康的な薄黄金の血色。桃色の性器。雨に濡れた薄の穂のように、さわりと艶のある毛がそこを守っていた。
奈保美の輪郭が、ふわりと透明に現れて、すぐに消えてゆく。
重なって残されていた瑞穂の脚と股は、奈保美のものとは色彩が一段暗く、あきらかに違うものだった。さっきまで、俺のものが突っ込まれていた実感がない。
ふと、自分の足の間を見下ろす。確かに先ほど硬直していたものが、今は萎えている。だが、そこにしとどに濡れた女の蜜が撫で付けられている。
確かにこの女と交わった形跡があった。
さっきまで貪っていた身体だというのに、そこはかとない落胆が喉の奥から込みあげて、やがて諦念となって沈んでゆく。
全身に疲れを感じる。心にも。早く寝てやすみたかった。ここではないどこかで。俺のベッドで。ひとりで。
片手で前髪を払いあげると、汗に濡れて張りついていた。
開脚して、だらだら俺に話しかけていた瑞穂が、足をゆるく閉じて横に動いた。
サイドテーブルに置いていた赤いマグカップを手に取って、中の水をごくりと飲む。こちらに向けた尻と背が、ほのかに赤く染まっている。細く白いゆびが、マグカップにまとわりつく。爪にも赤いネイルを塗っていたことに、いまさら気付く。手をからめた時には気付かなかった。くちづけをした時の、口紅の赤には気付いていたが。ネイルはそれよりもあざやかで、傷口からいま、生まれたばかりの血の色をしていた。そこに宿ったひかりが、葉についたしずくのように、こちらへ反射している。
マグカップから顔を離すと、俺のことをにらみつけてきた。
白い頬に、汗で固められた黒髪のふさが、片手で払った蜘蛛の巣のように張り付いている。
シャワーを浴びてマスカラを落とした一重の目は、セックスの前よりもちいさくなっていたが、その眼光はいつになく鋭くなっていた。瞳孔が黒くひかっている。繋がった後だというのに、自分を犯して剥がれた俺を、射殺そうとする目つきだった。まぶたも濡れたように、蘇芳にひかっていた。ラメ入りのアイシャドウが、残っているのかわからないが。瑞穂がアイシャドウをつけていたのかすら、覚えていない。
「なんで、またあたしが壊れそうになるくらい抱いたの」
先ほどだらだら話していたときは、輪郭がなくぼんやりとしていた瑞穂の声は、急に重量をともなって聞こえてきた。
「は?」
俺が唖然とした声を出すと、瑞穂はさらに顔をあげた。真っ直ぐにこちらをにらむ黒い眸に、何の恐怖も感じなかった。シャワーと一緒だ。ただ流れてゆくだけ。汚れが落とされるまで。
いつもセックスのたびに、脚を限界まで広げさせられることや、痛いといっても奥深くまで突き続けることに対しての説教をされた。最後のほうは、半狂乱になった瑞穂が、喋りながら布団で顔を覆って泣いていた。
肩を震わせて泣く瑞穂の、花弁の先から枯れてゆく夏の花のような声に、俺は耳がどんどん遠のいてゆくのを感じていた。
何も考えず、気付けばベッドの端に脱ぎ捨てたジーンズと共に置いていた、黒の本革のショルダーバッグを開けて、黒の革財布を取り出すと、ゆるやかにゆびを動かして、一万円札を一枚取り出していた。
「ごめん。これで許して」
かるく上体を曲げて、瑞穂に顔を寄せると、かるい口調でそう言った。
瑞穂は布団から顔をあげた。涙で濡れた顔は、熟れたトマトのように真っ赤でぐちゃぐちゃだった。
まつげの間に溜まったしずくが、ぽつりとひとつ落ちると、頬に流れて、掛け布団のショッキングピンクのカバーに染みて消える。
その染みが広がりを見せはじめた時、瑞穂が「なんで」とつぶやいた。絞り出したような涙声だった。
またひとしずく、瑞穂のなみだが布団に落ちる。先に落ちた染みと合わさり、大きな円のようになって広がってゆく。
その広がりとひとしく、瑞穂の肩の震えが大きくなってゆく。がたがたと、血流が逆流しているんじゃないかと思えるほどに、からだ全体が震え始めた頃、瑞穂は掛け布団から両手を離して、自分の肩を抱いた。剥がれたからだは、ショッキングピンクのベッドの上で、ひときわ白く浮いている。先ほど何度も握ったり摘んだり、口にふくんだりしていた小ぶりの胸が、細い腕の間から覗いている。そして振りかぶるように大きく顔をあげて、俺を睨んだ。
ちいさな目が極限まで見開かれていた。白い眼球が血走っている。ゆで卵の殻から、無理やり白身を出そうとするときのように、はち切れて中身が壊れてしまうのではないかというほど、力がこめられていた。
「……ああ、足りなかった? じゃあもう一枚。今度は新札だぜ」
俺は平坦な顔と声で、財布から一万円札をもう一枚取り出すと、人さし指と親指の間に挟んでひらひらと振り、瑞穂の鼻先に近づける。先に出していた一万円札と重なって、ベージュ色のちいさな扇のようになる。
瑞穂は、うすくくちびるを開けて、それを見ていた。呆気に取られて感情を一瞬失ったように、青褪めて。
「ふざけないで!!」
瑞穂の怒声が、一万円の扇をびりびりと震わせた。
端からはらはらとはためいて、俺の手に当たる。かるい痛みをともなったが、気にしなかった。
瑞穂は立ちあがると、仁王立ちでくちびるを引き締め、俺を下からじっとにらむ。眼光だけになってしまったかと思うほど、鋭利で狂気があった。
億劫な沈黙が、空気を冷えさせる。
瑞穂は突然へなりと折れて、動かなくなった。さっき布団をかぶっていた時よりも、ちいさくまるくなって、頂点に少し黒い毛の生えた、白い肉のかたまりにしか見えなくなっていた。
俺はベッドに胡座をかくと、三つ指をついて瑞穂のほうへ膝を進めた。
伏せた瑞穂の顔へ、自分の顔を近づける。自分がしでかした悪戯を怒られて、どうしていいかわからず困ったガキのように眉を寄せて。
「ごめんな。瑞穂が悪いわけじゃねぇんだわ。ほんとに。俺がもう、お前に興味ないんだわ。瑞穂のことは、なんも悪く思ってるわけじゃねぇんだけど。ほんとごめん。ほんと」
さっきの瑞穂の勢いに、無意識にベッドに置いていた二万円をつかむと、瑞穂の顔を覆う、黒い紗幕のようになったさらさらとした髪に向けて、金を降らせた。花弁のようにはらりと裏返って、まっすぐな瑞穂の髪の上をすべり落ちて、青い血管が透明に浮いている二の腕にふれて一枚止まり、二枚目は左の太ももの上に乗って、動きを止めた。
金の流れにそって、はじめて瑞穂の足を見た。小指の爪の先が割れていて、今にも血が出そうな紫をしている。
財布をバッグの中にしまい、淡々と服を着てバッグを肩にかけると、片手でドアを開けた。くらりと高い音が鳴る。薄暗い部屋に、あふれるような赤いあかりが差し込んで、縦に長く細くなって消えてゆく。
外に出ると、黒のストールを巻いた。刹那、目の前にかざされた透明な黒に、淡いひかりが濾過された白い結晶のようにきらめく。
すでに外は朝で、建物や肌に青い影を作るほど、太陽がはっきりとのぼっていた。
肌寒さを感じ、くしゅんとひとつくしゃみをする。目や鼻の穴が一瞬で濡れ、乾いていたことに気付く。
「……ねみー……」
人差し指で鼻の下をこする。頬やまぶたにふれる空気に、水煙を集めて、真綿の中に入れて散らしたような温度を感じる。息をひとつこぼし、何事もなかったように顔をあげ、すたすたと歩いてゆく。
一度もラブホテルを振り返らなかった。
真っ黒な俺は、透明な空気の中を歩いて、水浅葱と紫が溶ける空を背景に、朝の駅の中で、行き交うひとの群れの一部になって消えてゆくだけ。
彼女に会うまでの時間で、今日はあまり綺麗だと思うものと、出会えなかった。唯一綺麗だと思えたのは、ルールブルーの空だけだった。日の出前と日の入り前に、空が濃い青色に染まる時間帯のこと。英語ではブルーアワーというらしいが、俺はフランス語の「ルールブルー」の名前のほうを好んでいた。今日の空は、一段と澄み切った青をしている。
この青一色に、世界が染められた夜に変わりゆく時間のはざまに、永遠にたゆたっていたかった。
瑞穂が選んだバーは、さくらんぼが爆ぜたような香りが、そこかしこに漂っていた。
中央に置かれた、蓮の形をしたライトが出すあかりが、うす紅や紫の花弁が散っているようなひかりを、白い壁へとまだらに映している。
店員が食器を重ねる音が、氷と氷がぶつかったような澄んだ高さとなって鳴る。俺たちの間に時折生まれる、違和感のある沈黙の間を舞って。
ひとに会いたいという欲求は、昔からあまり深くなかった。孤独をくるしいと思うことはなかった。ただ誰かに呼ばれれば、蛇口をひねれば生まれる水のように、淡々と会うだけだった。
瑞穂は隣の席で、上体をカウンターテーブルに伏せて、少し左右にゆらしながら、俺と前に会った日の後から、今日俺に会う日までに自分の身に起きた出来事について、たのしそうに語る。
俺の話を聞くのではなく、自分の話がしたいから、俺を呼んだのだろう。いつもこの女はそうだった。
もうそれに飽きることも、嫌に思うこともなく、ただ慣れて、時間の流れに身を任せるだけだった。
今宵の瑞穂は、黒いネックウォーマーの上に、カーキ色のキャミソールワンピースを着ていた。
瑞穂の背中に、かすかに糸が浮いている。出る時に気付かなかったのか。いつも黒や灰色など、地味な色の服ばかり着てくる女だった。それが似合っているかと言われれば、素直にうなずけない。もっとあかるい単色を着たほうが、白い肌と黒髪に合っていいんじゃないかと思っていたが、口に出すことはなかった。抱けば一緒だからだ。いつしかそれだけが、この女に会う目的になってしまった。腕につけた銀のバングルと、丘のように服の下から浮きあがった肩甲骨だけが、瑞穂の全身の中では、良いと感じた。
顔のラインで揃えた瑞穂の黒髪がゆれて、俺の肩にかすかにふれては離れてゆく。
横で一方的に喋る瑞穂のほうを見ずに、少しうつむいてグラスを片手に持ち、カクテルの味を確かめていた。あまいのか、からいのか、わからない。言葉を生み出すとしたら、どっちにこの味を持っていくか。描写するか。女の声を右耳で聞いているふりをしながら、思考のほとんどはそちらに転がっている。
「ねぇー、聞いてんの」
「あ? ああ」
「嘘ばっかり。カクテルの味と、あたしと前にしたキス、どっちが美味しかったの」
二拍置いて「カクテル」、とちいさくつぶやくと、「サイテー」と肩をばんと叩かれた。
くちびるにつけたグラスが、歯に強く当たってじんと痛む。
でも俺は怒らない。自覚したことはないが、感情的にならないのが、俺の長所だと友達に言われたことがある。
カクテルは飲むごとに深い味わいになった。人工的な濃いピンクが、苺を真似た甘酸っぱい味が、舌の上で爆ぜるスパークリングが、からだの中に残った昼の感覚を、上から塗り足して忘れさせてくれる。
頭の中に花霞がかかったように、そこから記憶が朧になった。何を目にしても輪郭が溶けて、背景と混ざって曖昧な乳白色の淡さになる。
そのままバーで、しばらく瑞穂の仕事の愚痴に付き合った気がする。
会社の同じフロアのチームの主任の悪口や、ひとつ下の階で仕事をしている、別チームの課長と契約社員の女が不倫していることなど、この女が溜めているのは、性欲だけではないことを、行為の前に飲むたび思い知らされる。言葉で自分の中に溜まったものを吐いているのかもしれない。そうやって吐き出していないと、この女のセックスはもっとねちっこく、執念深いものになってしまうのかもしれない。
青や黄色のあかりが、薄紅色に霧がかって、目の前を大きく覆っては、溶けて過ぎ去ってゆく。
俺はゆれていた。
瑞穂に腕を取られ、彼女に重力を任せて。
水の中をたゆたう葦のように。ただ自分にふれたものに身を任せて。自分で決断しないで。
もうそういう風にしか、恋愛ができなくなっていた。
いつの間にか、俺は瑞穂とセックスしていた。抱いたのか抱かれたのかよくわからないセックスだった。汗ばんでいたのは、俺なのか、瑞穂なのか。
ペットボトルに入った炭酸を無理やり振って、蓋を取って放ったような体液が、ショッキングピンクのシーツの上に散らばっていた。
河津桜。
ぼんやりとした頭で直感的に思う。いつかの伊豆旅行で見た、河津桜の花の色と一緒だった。薄紅よりも華やかな濃いピンク。恋愛の嘘を溶かして、誤魔化すようなあまい色。
肌の感覚が、脚の小指の先から戻ってきて、全身がしっとりと湿っていることに今さら気付く。いや、昨日の夜から感覚がずっと朧だ。頭の中がぼやぼやしている。
瑞穂が何か言っている。
俺に向かって脚を大きくひらいている。性器の近くの太ももに、ほくろが縦に点々と並んでいるのさえ見える。瑞穂も、全身を汗で染めて湿っていた。白い電球を下から当てられた河津桜の花弁のように、ましろい肌に、はっきりとしたピンクの影ができている。脚の間にある女の部分は、雨上がりの六月の朝の窓のように濡れて、荒い息を吐いている彼女のくちびるとひとしく、ひらいたり閉じたりしてうごめいていた。
俺は瑞穂の脚と股に目をうつしながら、遠い日の出来事が間にうすぼんやりと立ち現れているのを感じていた。雲間から差し込んだ紗のようなうすい陽光が、雨上がりにさっと差し込む感覚と似ていた。
高二の秋、奈保美が俺に向けてアトリエで脚をひらいていた。張りのある瑞々(みずみず)しい肌と、長い脚。健康的な薄黄金の血色。桃色の性器。雨に濡れた薄の穂のように、さわりと艶のある毛がそこを守っていた。
奈保美の輪郭が、ふわりと透明に現れて、すぐに消えてゆく。
重なって残されていた瑞穂の脚と股は、奈保美のものとは色彩が一段暗く、あきらかに違うものだった。さっきまで、俺のものが突っ込まれていた実感がない。
ふと、自分の足の間を見下ろす。確かに先ほど硬直していたものが、今は萎えている。だが、そこにしとどに濡れた女の蜜が撫で付けられている。
確かにこの女と交わった形跡があった。
さっきまで貪っていた身体だというのに、そこはかとない落胆が喉の奥から込みあげて、やがて諦念となって沈んでゆく。
全身に疲れを感じる。心にも。早く寝てやすみたかった。ここではないどこかで。俺のベッドで。ひとりで。
片手で前髪を払いあげると、汗に濡れて張りついていた。
開脚して、だらだら俺に話しかけていた瑞穂が、足をゆるく閉じて横に動いた。
サイドテーブルに置いていた赤いマグカップを手に取って、中の水をごくりと飲む。こちらに向けた尻と背が、ほのかに赤く染まっている。細く白いゆびが、マグカップにまとわりつく。爪にも赤いネイルを塗っていたことに、いまさら気付く。手をからめた時には気付かなかった。くちづけをした時の、口紅の赤には気付いていたが。ネイルはそれよりもあざやかで、傷口からいま、生まれたばかりの血の色をしていた。そこに宿ったひかりが、葉についたしずくのように、こちらへ反射している。
マグカップから顔を離すと、俺のことをにらみつけてきた。
白い頬に、汗で固められた黒髪のふさが、片手で払った蜘蛛の巣のように張り付いている。
シャワーを浴びてマスカラを落とした一重の目は、セックスの前よりもちいさくなっていたが、その眼光はいつになく鋭くなっていた。瞳孔が黒くひかっている。繋がった後だというのに、自分を犯して剥がれた俺を、射殺そうとする目つきだった。まぶたも濡れたように、蘇芳にひかっていた。ラメ入りのアイシャドウが、残っているのかわからないが。瑞穂がアイシャドウをつけていたのかすら、覚えていない。
「なんで、またあたしが壊れそうになるくらい抱いたの」
先ほどだらだら話していたときは、輪郭がなくぼんやりとしていた瑞穂の声は、急に重量をともなって聞こえてきた。
「は?」
俺が唖然とした声を出すと、瑞穂はさらに顔をあげた。真っ直ぐにこちらをにらむ黒い眸に、何の恐怖も感じなかった。シャワーと一緒だ。ただ流れてゆくだけ。汚れが落とされるまで。
いつもセックスのたびに、脚を限界まで広げさせられることや、痛いといっても奥深くまで突き続けることに対しての説教をされた。最後のほうは、半狂乱になった瑞穂が、喋りながら布団で顔を覆って泣いていた。
肩を震わせて泣く瑞穂の、花弁の先から枯れてゆく夏の花のような声に、俺は耳がどんどん遠のいてゆくのを感じていた。
何も考えず、気付けばベッドの端に脱ぎ捨てたジーンズと共に置いていた、黒の本革のショルダーバッグを開けて、黒の革財布を取り出すと、ゆるやかにゆびを動かして、一万円札を一枚取り出していた。
「ごめん。これで許して」
かるく上体を曲げて、瑞穂に顔を寄せると、かるい口調でそう言った。
瑞穂は布団から顔をあげた。涙で濡れた顔は、熟れたトマトのように真っ赤でぐちゃぐちゃだった。
まつげの間に溜まったしずくが、ぽつりとひとつ落ちると、頬に流れて、掛け布団のショッキングピンクのカバーに染みて消える。
その染みが広がりを見せはじめた時、瑞穂が「なんで」とつぶやいた。絞り出したような涙声だった。
またひとしずく、瑞穂のなみだが布団に落ちる。先に落ちた染みと合わさり、大きな円のようになって広がってゆく。
その広がりとひとしく、瑞穂の肩の震えが大きくなってゆく。がたがたと、血流が逆流しているんじゃないかと思えるほどに、からだ全体が震え始めた頃、瑞穂は掛け布団から両手を離して、自分の肩を抱いた。剥がれたからだは、ショッキングピンクのベッドの上で、ひときわ白く浮いている。先ほど何度も握ったり摘んだり、口にふくんだりしていた小ぶりの胸が、細い腕の間から覗いている。そして振りかぶるように大きく顔をあげて、俺を睨んだ。
ちいさな目が極限まで見開かれていた。白い眼球が血走っている。ゆで卵の殻から、無理やり白身を出そうとするときのように、はち切れて中身が壊れてしまうのではないかというほど、力がこめられていた。
「……ああ、足りなかった? じゃあもう一枚。今度は新札だぜ」
俺は平坦な顔と声で、財布から一万円札をもう一枚取り出すと、人さし指と親指の間に挟んでひらひらと振り、瑞穂の鼻先に近づける。先に出していた一万円札と重なって、ベージュ色のちいさな扇のようになる。
瑞穂は、うすくくちびるを開けて、それを見ていた。呆気に取られて感情を一瞬失ったように、青褪めて。
「ふざけないで!!」
瑞穂の怒声が、一万円の扇をびりびりと震わせた。
端からはらはらとはためいて、俺の手に当たる。かるい痛みをともなったが、気にしなかった。
瑞穂は立ちあがると、仁王立ちでくちびるを引き締め、俺を下からじっとにらむ。眼光だけになってしまったかと思うほど、鋭利で狂気があった。
億劫な沈黙が、空気を冷えさせる。
瑞穂は突然へなりと折れて、動かなくなった。さっき布団をかぶっていた時よりも、ちいさくまるくなって、頂点に少し黒い毛の生えた、白い肉のかたまりにしか見えなくなっていた。
俺はベッドに胡座をかくと、三つ指をついて瑞穂のほうへ膝を進めた。
伏せた瑞穂の顔へ、自分の顔を近づける。自分がしでかした悪戯を怒られて、どうしていいかわからず困ったガキのように眉を寄せて。
「ごめんな。瑞穂が悪いわけじゃねぇんだわ。ほんとに。俺がもう、お前に興味ないんだわ。瑞穂のことは、なんも悪く思ってるわけじゃねぇんだけど。ほんとごめん。ほんと」
さっきの瑞穂の勢いに、無意識にベッドに置いていた二万円をつかむと、瑞穂の顔を覆う、黒い紗幕のようになったさらさらとした髪に向けて、金を降らせた。花弁のようにはらりと裏返って、まっすぐな瑞穂の髪の上をすべり落ちて、青い血管が透明に浮いている二の腕にふれて一枚止まり、二枚目は左の太ももの上に乗って、動きを止めた。
金の流れにそって、はじめて瑞穂の足を見た。小指の爪の先が割れていて、今にも血が出そうな紫をしている。
財布をバッグの中にしまい、淡々と服を着てバッグを肩にかけると、片手でドアを開けた。くらりと高い音が鳴る。薄暗い部屋に、あふれるような赤いあかりが差し込んで、縦に長く細くなって消えてゆく。
外に出ると、黒のストールを巻いた。刹那、目の前にかざされた透明な黒に、淡いひかりが濾過された白い結晶のようにきらめく。
すでに外は朝で、建物や肌に青い影を作るほど、太陽がはっきりとのぼっていた。
肌寒さを感じ、くしゅんとひとつくしゃみをする。目や鼻の穴が一瞬で濡れ、乾いていたことに気付く。
「……ねみー……」
人差し指で鼻の下をこする。頬やまぶたにふれる空気に、水煙を集めて、真綿の中に入れて散らしたような温度を感じる。息をひとつこぼし、何事もなかったように顔をあげ、すたすたと歩いてゆく。
一度もラブホテルを振り返らなかった。
真っ黒な俺は、透明な空気の中を歩いて、水浅葱と紫が溶ける空を背景に、朝の駅の中で、行き交うひとの群れの一部になって消えてゆくだけ。