ガラスの魔法、偽りの花嫁
第3章 香りの秘密
披露宴のざわめきが過ぎ去って数日。
御園玲奈は、久々に父の経営する老舗デパートの本社に足を運んでいた。
その理由は、化粧品部門での新規企画会議への参加。
玲奈にとっては初めての“社会的な役割”だった。
「玲奈。これからは家の名前を背負うことになる。せめて、部門の一つくらいは経験しておきなさい」
父の厳しい言葉が、背中を押したのだ。
会議室に並んだのは、各ブランドの担当者たち。
玲奈は場違いな居心地の悪さを覚えながらも、化粧品の並ぶサンプルテーブルに視線を落とした。
リップ、アイシャドウ、香水――。どれも彼女にとって“魔法”のような存在。
(これが、私の居場所になれるのなら……)
勇気を出し、意見を述べた。
「……この香りですが、トップノートが少し強すぎるように感じます。つけ始めは華やかでも、長時間だと疲れてしまうかと」
一瞬、室内の空気が止まった。
誰もが“令嬢の気まぐれな感想”と片づけようとしたとき――、若い企画担当が小さく頷いた。
「……確かに、持続性の点では改善の余地があります」
玲奈は安堵と驚きに胸を熱くした。
自分の言葉が、誰かに届いたのだ。
会議を終えたその夜。
玲奈は廊下を歩きながら、足を止めた。
ほんのり漂ってきた香り――それは、あの日から忘れられない「ディア・グレイス」の新作の匂い。
気づけば、研究開発棟の前に立っていた。
普段は近づくことすらできないその場所から、仄かな光が漏れている。
(誰か、まだ残っているの……?)
心臓を鳴らしながら、そっと扉を押し開けた。
中にいたのは――篠宮透真だった。
白衣姿で、調香用の器具を扱う彼の横顔。
煌めく試験管の中で、淡い液体が混ざり合う。
普段の冷徹なスーツ姿とは違う、真剣で静かな姿。
玲奈は思わず立ちすくんだ。
その空気を揺らすように、調合中の香りがふわりと漂う。
(この香り……!)
胸が強く締めつけられる。
それは間違いなく、玲奈が長年愛用してきたフレグランスと酷似していた。
けれど、より深く、より複雑に心を揺さぶる匂い。
「……何をしている」
透真が顔を上げた。
その声は冷たいが、瞳の奥にはかすかな驚きがあった。
「あ、すみません……。通りがかったら、香りがして……」
玲奈は慌てて言い訳を口にする。
透真は視線を逸らし、器具を片づけ始めた。
「ここは関係者以外、立ち入り禁止だ」
「……その、香り。どこか懐かしい気がして」
恐る恐る言葉を重ねると、透真の動きが一瞬止まった。
だが次の瞬間、感情を閉ざすように背を向ける。
「気のせいだ」
短く、突き放すように。
玲奈の唇が震えた。
言葉を飲み込むしかなかった。
あの披露宴で美咲に囁かれた言葉が、頭をよぎる。
――“彼はあの香りを忘れられないみたい”。
(美咲さんのために、この香りを……?)
疑念が胸に渦巻く。
けれど同時に、透真の横顔に見た真剣さが忘れられない。
研究室を出てからも、玲奈の胸はざわめいていた。
車に乗り込んでからも、窓の外の夜景が目に入らないほどに。
冷たい人だと思っていた。
けれど、あの香りに込められた熱は、嘘ではない。
(彼は、本当は何を想っているの……?)
答えの出ない問いを抱えたまま、玲奈は夜の闇に揺れる街を見つめ続けた。