ガラスの魔法、偽りの花嫁

第4章 夜会の影

 夏の夜風が、都心の摩天楼を吹き抜ける。
 煌びやかなライトアップに彩られた会場の外観は、まるで宝石箱をひっくり返したようだった。

 その夜、御園玲奈は篠宮透真に伴われ、業界の夜会へと足を運んでいた。
 政略結婚後、初めて二人そろって公式の場に立つ。
 披露宴の華やかさとは違い、この場に集まるのは各国の有力者、著名なデザイナー、企業家、そして世界的なモデルや女優たち。
 玲奈は、眩い視線に包まれながら一歩を踏み出すたび、足元が揺れるような心地を覚えていた。

 透真の横顔は、夜会のきらめきにも負けないほど完璧で冷ややか。
 彼のエスコートに導かれる形で歩きながらも、玲奈の心は緊張と不安で押し潰されそうだった。

(どうして……こんな世界に、私は立っているんだろう)



 会場内に一歩入れば、シャンデリアの光が天井から降り注ぎ、シャンパンの泡がきらめく。
 大理石の床に響く音楽と笑い声。
 まるで別世界だった。

「篠宮社長、奥様もご一緒で!」
 次々と声をかけられる透真は、涼しい笑みを浮かべ、玲奈の腰に手を添える。

 その仕草は絵に描いたように優雅で、完璧。
 けれど――彼の指先には体温がなかった。
 玲奈の胸に広がるのは安心ではなく、孤独だった。



「少し、休んできます」
 玲奈は、逃げるようにバルコニーへ出た。

 涼しい夜風が頬を撫で、遠くに東京の夜景が広がる。
 深呼吸を繰り返すうちに、ようやく心が落ち着きかけたその時――。

「やっぱり、あなたはこの場に似合わない」

 低く囁く声に、玲奈は振り返った。
 そこに立っていたのは――高遠美咲。

 黒のドレスに身を包み、妖艶な微笑を浮かべている。
 彼女はゆっくりと歩み寄り、玲奈の耳元で囁いた。

「透真が本当に誰を想っているか、気づいてる?」

 玲奈の心臓が跳ねる。
 答えを返す間もなく、美咲は意味ありげな笑みを残し、再び会場の方へ消えていった。



 不安を胸に抱えながら会場へ戻ると、視線の先に透真の姿があった。
 彼はワイングラスを片手に、美咲の耳元へ顔を寄せ、何かを囁いている。
 美咲は楽しげに笑みを浮かべ、その肩に軽く触れた。

(……っ!)

 玲奈の喉が焼けるように熱くなる。
 足が床に貼りついたように動けなかった。

 胸の奥に広がったのは、理解できないほどの痛み。
 悔しさ、嫉妬、そして寂しさ――。

(やっぱり……透真さんは、美咲さんを……)



 視線に気づいたのか、透真がふと玲奈の方を見た。
 けれど、その瞳は何も映さない鏡のように冷たい。
 玲奈は堪えきれず、会場を飛び出した。

 長い廊下を駆け抜け、ホテルの静かな回廊へ。
 ヒールの音がやけに大きく響き、涙が今にも溢れそうになる。

(私なんて……ただの契約の花嫁。あの人にとって、大事な存在じゃない)

 呼吸が乱れ、胸が苦しくなる。
 それでも、足を止められなかった。



「――何をしている」

 背後から聞こえた低い声に、玲奈は足を止めた。
 振り返れば、そこに透真が立っていた。

「もう帰りたいんです」
 震える声で告げる。

「勝手に席を立つな。今日は大事な夜会だ」

 冷たい叱責に、玲奈の胸がさらに締めつけられる。
 けれど、勇気を振り絞って言葉を返した。

「……美咲さんと、何を話していたんですか」

 一瞬、透真の表情が固まった。
 だがすぐに、感情を消し去るように顔を背ける。

「仕事の話だ。それ以上詮索するな」

「でも――」

「お前には関係ない」

 鋭く突き放す声。
 玲奈の心は、ガラスのように脆く砕け散った。



 車に揺られながら、玲奈は窓の外の夜景を見つめていた。
 隣に座る透真は無言で、タブレットを操作している。

 会話はない。
 沈黙だけが、二人の間に広がっていた。

 けれど――。
 ふと漂ってきた香りに、玲奈の心臓が跳ねる。

 それは、あの夜、研究室で嗅いだ香り。
 美咲が囁いた“忘れられない香り”。

 冷たい態度の裏で、透真は何を隠しているのか。
 疑念と、説明できない感情が胸の奥で絡み合い、玲奈を締めつけた。

(……本当の透真さんは、どこにいるの?)

 答えはまだ、闇の向こうに隠されたままだった。
< 5 / 25 >

この作品をシェア

pagetop