おやすみなさい、いい夢を。
しばらく、彼の名刺は私の机の引き出しに、お守りみたいに仕舞われていた。
……いつでも連絡していい。
彼はそう言ってくれたけれど、それでも何を連絡すればいいのか、本当は迷惑なんじゃないか、そんな想いが消えなかった。
私は結局、高校の卒業式を終えてから数日経って、彼に一度だけ——と思って、名刺の番号に連絡した。
迷って、やめて、また打ちかけて。
送信ボタンを押すまでに、三十分以上かかった。
……もうこんなことを頼める機会は、これが最後だと、
何となくそう思っていた。
彼との、思い出が欲しかった。
たぶん、それだけだった。
『日向さん。お疲れ様です。中野桜です。
——やっぱり、食事じゃなくてもいいから、なにか合格祝い欲しいです』
送信したあと、スマホを伏せた。
心臓の鼓動がひどくうるさく感じた。
“送るべきじゃなかったかもしれない”
そう思いながらも、削除はしなかった。
窓の外では、春の雨が静かに降っていた。
しばらくして、スマホが小さく震えた。
『——了解。餞別な。桜でも見に行こうか?』
短いメッセージだったのに、
画面の文字が滲んで見えた。
胸の奥が少し熱くなる。
あぁ、これで本当に最後にしよう。
そう思いながらも、
“どこの桜を見に行けるんだろう”と考えている自分がいた。