君と越えるブルー
第10話
学習スペースに再び戻ったけれど、和はあまり集中できずにいた。
また「静かに」と注意をされないために最大限声を潜めて話すから、勉強を教え合おうとすると必然的に距離が近付く。
視界の端で揺れる、陽の光を柔らかく反射した鳴海の髪。シャープペンシルを器用に回す、長い指。ときどき、自分の腕に当たる鳴海の服の袖。そして何より、ふとしたときに見せる鳴海の笑顔に動揺してしまう。
和は自分の手の甲を頬に当てた。こもった熱が少しだけ冷やされる。この焦燥感に似た何かは、恐怖感から起きる頻脈やパニックに比べたらとても心地が良いものだ。けれど、どうしたらいいのか分からなくて、和はいっぱいになった胸の空気を抜くように、小さく息を吐き出した。
*
「またね」と和の家の前で鳴海と別れたのが十七時前だった。
夕食を済ませた後、二階にある自分の部屋で和は明日の学校の準備をしていた。
時間割表を確認しながら、教科書とノートを揃えスクールバッグの中に入れていく。数学の教科書を手に取ったとき、今日だけ同じ学校に通っているみたいだと言った鳴海を思い出した。
彼が同じ学校だったとしたら。同じクラスだったとしたら。私たちは一体どんな風に関わっていたのだろう、と想像してみる。今のように会話を交わしたり、一緒に出掛けたりすることはあったのだろうか。
いつも自分が通っている教室の中、机に頬杖をついてノートを取っている鳴海の姿が思い浮かぶ。ときどきペンを回したり、あくびを噛み殺したりしている横顔。そして、こちらの視線に気づいて振り向いて、目が合って、ふっと和らげられる表情。
他の学校に通う者同士、そんなことは絶対に起きるはずなんてないのだけれど。
……藤原くんは、クラスメイトたちにもあんな風に笑いかけるのかな。
ふと浮かんだ考えに胸の奥がちくりと小さく痛む。何だかモヤモヤが広がっていく感覚に和は困惑した。
大地のようにハッキリと感情を顔に出す人ではないけれど、鳴海がクラスメイト相手に笑わないような人ではないと思う。同じ時間を過ごしていたら話だってするし、笑うことだってあるだろう。
でも……と和は目を伏せた。教科書で口元を隠した笑みや、両手で顔を隠して照れたように笑う笑顔は、私以外の人も知っているのだろうか。そして、そのときに目の前にいる人は――。
……って、どうしてこんなことばかり考えてしまうのだろう。モヤモヤを払うように、数学の教科書とノートをスクールバッグの中に突っ込む。その手は少しだけ乱暴になってしまった。
扱い切れないモヤモヤを抱えたまま、和はベッドに仰向けで寝転ぶ。そのとき、枕元に置いていたスマートフォンが着信音を鳴らした。
二十時過ぎ。こんな時間に通話がかかってくるなんて珍しい、と慌てて体を起こした和はディスプレイを覗き込む。
てっきり、大地かクラスメイトの女友達かと思っていたから、そこに表示されている名前に「えっ」と和の裏返った声が口から零れ落ちた。
「も、しもし」
慌てて通話を取る。言葉を詰まらせながら電話に出れば、「急にごめん」と言う鳴海の声が鼓膜を揺すった。
先ほどまで考えていた相手から通話が掛かってきたせいか、スマートフォンを耳に当てた和の背筋が伸びる。
「えっと、どうしたの?」
「いや、あのさ……すげぇ肝心なこと忘れてたのに今気づいて」
何かあっただろうか、と和は首を傾げた。
「俺、傘返さずに帰ってる」
本当にごめん、と謝る鳴海の語尾は弱々しい。そういえば、と和も「ああっ」と声を上げた。
和も会ったときは傘のことを覚えていたけれど、帰るころにはすっかり傘の存在を忘れてしまっていた。
「全然大丈夫」と和は笑って続ける。
「私もすっかり忘れてたから」
「明日、返しに行くよ。部活終わったあとになるけど」
「そんな、急がなくて大丈夫だよ。部活終わりなんて疲れてるだろうし」
「でも、急に雨降ってきたら困るでしょ。あ、予定があるなら別の日にするけど……」
「ううん、予定はないよ。そこは大丈夫なんだけど……」
「うーん……」と和は唸る。確かに雨が突然降って来たときは困るかもしれないが、だからと言ってわざわざ部活が終わったあとに来てもらうのも申し訳ない。しばらく考え込んだ後、和はふと頭に思い浮かんだ案を口にした。
「期末テストが終わった日に会わない? お互いに半日授業だと思うし、藤原くんの負担も少ないかなって」
テストももうすぐだから、そんなに日にちも空かないよと和は続ける。
「その日なら、確かに部活もないし……」
鳴海が揺れている。ここだ、と和はさらに押し込んだ。
「私も申し訳ないって思わないから、その日にしてもらえると私が嬉しいかも」
「ん、分かった。じゃあ、その日にしよう」
「ありがとう」
「いや、お礼を言うのは俺のほうだから」と笑った。鳴海の笑い声に耳を澄ませているうちに、いつの間にか心に広がっていたモヤも晴れていく。
鳴海の笑顔を思い出してモヤモヤしていたはずなのに。彼の笑い声は笑顔ひとつで、こんなにも感情がふわふわと浮いたり沈んだりとするのは、なぜだろうか。
お互いにテスト頑張ろうね、という話をして通話を切る。終わり際に「おやすみ」と言った鳴海の声が、画面がブラックアウトした後もまだ和の耳に残っていた。
……また、藤原くんに会えるんだ。
その前にテスト、ちゃんと集中できるかな、と両手で顔を覆う。この忙しなくなる鼓動と胸に広がる甘い痛みの意味を、誰か教えて欲しいと思いながら。
また「静かに」と注意をされないために最大限声を潜めて話すから、勉強を教え合おうとすると必然的に距離が近付く。
視界の端で揺れる、陽の光を柔らかく反射した鳴海の髪。シャープペンシルを器用に回す、長い指。ときどき、自分の腕に当たる鳴海の服の袖。そして何より、ふとしたときに見せる鳴海の笑顔に動揺してしまう。
和は自分の手の甲を頬に当てた。こもった熱が少しだけ冷やされる。この焦燥感に似た何かは、恐怖感から起きる頻脈やパニックに比べたらとても心地が良いものだ。けれど、どうしたらいいのか分からなくて、和はいっぱいになった胸の空気を抜くように、小さく息を吐き出した。
*
「またね」と和の家の前で鳴海と別れたのが十七時前だった。
夕食を済ませた後、二階にある自分の部屋で和は明日の学校の準備をしていた。
時間割表を確認しながら、教科書とノートを揃えスクールバッグの中に入れていく。数学の教科書を手に取ったとき、今日だけ同じ学校に通っているみたいだと言った鳴海を思い出した。
彼が同じ学校だったとしたら。同じクラスだったとしたら。私たちは一体どんな風に関わっていたのだろう、と想像してみる。今のように会話を交わしたり、一緒に出掛けたりすることはあったのだろうか。
いつも自分が通っている教室の中、机に頬杖をついてノートを取っている鳴海の姿が思い浮かぶ。ときどきペンを回したり、あくびを噛み殺したりしている横顔。そして、こちらの視線に気づいて振り向いて、目が合って、ふっと和らげられる表情。
他の学校に通う者同士、そんなことは絶対に起きるはずなんてないのだけれど。
……藤原くんは、クラスメイトたちにもあんな風に笑いかけるのかな。
ふと浮かんだ考えに胸の奥がちくりと小さく痛む。何だかモヤモヤが広がっていく感覚に和は困惑した。
大地のようにハッキリと感情を顔に出す人ではないけれど、鳴海がクラスメイト相手に笑わないような人ではないと思う。同じ時間を過ごしていたら話だってするし、笑うことだってあるだろう。
でも……と和は目を伏せた。教科書で口元を隠した笑みや、両手で顔を隠して照れたように笑う笑顔は、私以外の人も知っているのだろうか。そして、そのときに目の前にいる人は――。
……って、どうしてこんなことばかり考えてしまうのだろう。モヤモヤを払うように、数学の教科書とノートをスクールバッグの中に突っ込む。その手は少しだけ乱暴になってしまった。
扱い切れないモヤモヤを抱えたまま、和はベッドに仰向けで寝転ぶ。そのとき、枕元に置いていたスマートフォンが着信音を鳴らした。
二十時過ぎ。こんな時間に通話がかかってくるなんて珍しい、と慌てて体を起こした和はディスプレイを覗き込む。
てっきり、大地かクラスメイトの女友達かと思っていたから、そこに表示されている名前に「えっ」と和の裏返った声が口から零れ落ちた。
「も、しもし」
慌てて通話を取る。言葉を詰まらせながら電話に出れば、「急にごめん」と言う鳴海の声が鼓膜を揺すった。
先ほどまで考えていた相手から通話が掛かってきたせいか、スマートフォンを耳に当てた和の背筋が伸びる。
「えっと、どうしたの?」
「いや、あのさ……すげぇ肝心なこと忘れてたのに今気づいて」
何かあっただろうか、と和は首を傾げた。
「俺、傘返さずに帰ってる」
本当にごめん、と謝る鳴海の語尾は弱々しい。そういえば、と和も「ああっ」と声を上げた。
和も会ったときは傘のことを覚えていたけれど、帰るころにはすっかり傘の存在を忘れてしまっていた。
「全然大丈夫」と和は笑って続ける。
「私もすっかり忘れてたから」
「明日、返しに行くよ。部活終わったあとになるけど」
「そんな、急がなくて大丈夫だよ。部活終わりなんて疲れてるだろうし」
「でも、急に雨降ってきたら困るでしょ。あ、予定があるなら別の日にするけど……」
「ううん、予定はないよ。そこは大丈夫なんだけど……」
「うーん……」と和は唸る。確かに雨が突然降って来たときは困るかもしれないが、だからと言ってわざわざ部活が終わったあとに来てもらうのも申し訳ない。しばらく考え込んだ後、和はふと頭に思い浮かんだ案を口にした。
「期末テストが終わった日に会わない? お互いに半日授業だと思うし、藤原くんの負担も少ないかなって」
テストももうすぐだから、そんなに日にちも空かないよと和は続ける。
「その日なら、確かに部活もないし……」
鳴海が揺れている。ここだ、と和はさらに押し込んだ。
「私も申し訳ないって思わないから、その日にしてもらえると私が嬉しいかも」
「ん、分かった。じゃあ、その日にしよう」
「ありがとう」
「いや、お礼を言うのは俺のほうだから」と笑った。鳴海の笑い声に耳を澄ませているうちに、いつの間にか心に広がっていたモヤも晴れていく。
鳴海の笑顔を思い出してモヤモヤしていたはずなのに。彼の笑い声は笑顔ひとつで、こんなにも感情がふわふわと浮いたり沈んだりとするのは、なぜだろうか。
お互いにテスト頑張ろうね、という話をして通話を切る。終わり際に「おやすみ」と言った鳴海の声が、画面がブラックアウトした後もまだ和の耳に残っていた。
……また、藤原くんに会えるんだ。
その前にテスト、ちゃんと集中できるかな、と両手で顔を覆う。この忙しなくなる鼓動と胸に広がる甘い痛みの意味を、誰か教えて欲しいと思いながら。