君と越えるブルー

第11話

 六月の最終週から始まったテストは七月の頭に無事終わりを迎えた。
 帰りの挨拶を済ませた教室の中には、長いテストから解放されたクラスメイトたちの賑やかな声が響いている。
「なご、なに急いでんの?」
 そんな喧騒の中で、わたわたとスクールバッグの中に荷物を詰めている和に、隣の席から大地が声をかけた。
「ちょっと、友達と会う約束してて」
 和は大地を見ずに答える。今日は、鳴海と会う約束をした日だ。
 先日やり取りしたメッセージでは、鳴海の学校の方がテスト最終日の科目が一つ多かった。そのため、一時間先に学校が終わる和が鳴海の帰りの時間に合わせて南藤井第一まで行くことになった。
 同じ市内とはいえ、移動時間を考えると、早めに出発しないと逆に鳴海を待たせてしまうことになりそうだ。
「友達って……もしかして、また、藤原鳴海?」
「え、うん。そうだけど……」
 和はようやく大地を見る。大地はあからさまに顔を顰めた。
「あいつ、本当に信用できんの?」
「……優しい人だよ」
「なごのこと、どこまで知ってんの、あいつ」
「軽く話はしてる。その上で、私に色々合わせてくれたり、気遣ってくれたりする人だよ」
 大地は一度、言葉を飲み込むように口を閉じた。それから和に一歩近付くと、
「藤原のこと、好きなの?」
 と、深刻そうな声で言った。
 大地の目には、視線を揺れ動かす和が映っていた。「好き」という言葉の意味をうまく飲み込むことができなくて、和はついに自分の視線を落としてしまった。
 大地が尋ねてきた言葉の意味が、「友達として好きか」ではないことくらい、和にも分かる。けれど、じゃあ自分の中にあるこの気持ちが「恋」かと問われると、まだ自分の恋心と対面したことのない和は、
「それは、分からない」
 ただ、そう答えることしかできなかった。
「でも、一緒にいると、すごく楽しい」
 困ったように笑った和に、大地は小さく息を飲み込んだ。

 潮高から南藤井第一までは自転車で三十分の距離だった。校門近くに自転車を停めていると、グラウンドのほうから声が聴こえてくる。ちょうど学校が終わったタイミングだったようだ。
 和は邪魔にならないように端に避けて、スマートフォンをバッグの中から取り出す。「到着したよ」とメッセージを送信するとすぐに既読がついて、「すぐ行くから待ってて」と返ってきた。
 目の前を通り過ぎる南藤井第一の生徒たちが、ちらちらと和を見ている。その視線が気まずくて、和は何もすることがないのにスマートフォンの画面を見つめた。セーラー服、学ランの潮高とは違って南藤井第一は男女ともに制服はブレザーのようだ。夏だから、みんな白いワイシャツを着ているけれど。学年ごとにネクタイの色が違うのか、赤、青、緑のネクタイが首元に撒かれている。
「お待たせ!」
 弾む息に和は振り返る。走って来てくれたのだろうか。肩で息をする鳴海に「全然待ってないよ」と和は首を横に振った。鳴海に会えたおかげで、視線の気まずさから多少解放される。
「わざわざ来てもらってごめん」
「ううん、全然。藤原くんにはいつも私の家のほうまで来てもらってるし」
「とりあえず、すぐ傘返す。時間経ったら、また忘れそうだし」
「お互いにね」
 くすくすと笑い合う。鳴海は肩にかけた青いスクールバッグの中を漁った。いつもの水泳部のエナメルバッグとは違う。テスト週間だからだろうか。服装も、和が見慣れているジャージ姿ではなく、制服の白いワイシャツに紺色のスラックスだった。首元、上二つ開けられたシャツのボタン。そこに緩く、青色のネクタイが結ばれている。南藤井第一の一年生は青色のカラーなのだろう。新鮮だな、とぼんやりと眺めていると、目の前に折り畳み傘が差し出された。
「はい、ありがとう。返します」
「いいえ、こちらこそ。確かに受け取りました」
「今日も、雨が降りそうな天気じゃなくて良かったよ」
「本当だね。最近、あんまり雨降っていないしすぐに梅雨明けしそう」
 和は受け取った傘を自分の自転車のカゴに入っているスクールバッグの中に仕舞ったとき、「なる」と呼ぶ声が聴こえてきた。
 顔を上げれば目の前に、青色のネクタイをした男子生徒が三人。
「え……! なる、誰、この子……!」
 視線が集まる。和は思わず体を強張らせた。肩が竦む。
「潮高の人じゃん。前に練習行ったとき、いたよね」
「あ、あのマネージャーの人か!」
 見覚えあると思った、とその内のひとりが声をあげた。
「うるさいって、お前ら」
 鳴海が顔を顰め、咎める。
 会話の内容から、どうやら水泳部の人らしいが和には誰なのか分からなかった。
 勝手に一歩下がったローファーの底が、小さな砂利を踏んで微かな音を鳴らす。
 パニックを起こしそうなほどの恐怖感はないけれど、鼓動は速度を速めている。最近、鳴海との関わりでは感じなかったその感覚に、唾を飲みこんだ。
「また練習とか大会で会うと思うから。よろしく」
 握手を求め、差し出される手。悪い人たちではないと頭の中では分かっている。よろしくねって手を握り返すだけで良い。それを分かっているのに、その手を握り返すための手を差し出すことができない。
 喘ぐような呼吸がひとつ、薄く開いた口から零れ落ちたときだ。
 差し出された手を和に代わって握り返す大きな手に、目を丸くした。
「俺と握手~。女の子に気軽に触れようとすんなよな」
「なんで、なると握手しなきゃいけねーんだよ」と、男の子たちはケラケラと笑い声をあげている。
「この人は水泳部のマネージャーじゃなくて、あの日はたまたま手伝いに来てただけだから、もうお前らが会うことはありません」
「え、そうなの?」
 和は鳴海の説明を肯定するためにこくこくと大きく頷いた。
「だから、早く帰れ、帰れ」
「俺らを邪魔者扱いすんなよなー」
「いや、邪魔者扱いなんじゃなくて、邪魔なの」
「なる、ひでー!」
 最低だー、と言いながらも男の子たちは「じゃあな」と明るく手を振って帰っていった。嵐が去ったように静かになる。和はようやく肩の力を抜いた。
「ごめん、大丈夫?」
 心配そうな表情で鳴海が振り返る。
「う、うん。びっくりしただけ」
「本当に?」
「うん、本当に」
「それならいいんだけど」
「うん。あと……代わりに握手してくれて、ありがとう」
 和はそっと鳴海の顔を覗き込んだ。鳴海の瞳がパチパチと瞬く。それから彼は「いや」と顔を逸らした。
「……俺が嫌だっただけ」
 そう言ったように聞こえた小さく鳴海の声は、下校する生徒たちの賑やかな声に攫われてすぐに消えていった。
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