君と越えるブルー

第12話

「せっかくこっちまで来てくれたし、どこか行く?」
 話題を変えるように鳴海が言う。
「この辺りあまり来たことがなくて。何があるのかあまり分からないかも」
「そうだよな。どこか良さそうなところあるかな……」
 うーん、と鳴海は腕を組んで思案する。しばらくそうやって考え込んだあと、「あ、そうだ」と彼は何かをひらいめいたようだった。
「じゃあ、今からさ、」と鳴海が言いかけたとき、「あ、鳴海」と彼の名前を呼ぶ可愛らしく、溌剌とした声が響いた。後ろを通りがかった女の子に、鳴海は「おー」と返事をする。鳴海と同じ青色のネクタイ。同じクラスの子だろうか。
「テストどうだった?」
「まぁまぁかな。そっちは?」
「私もー。とりあえず赤点はなさそう。あ、世界史の最後の問題、何にした?」
「Bにした」
「マジ!? 私、Cにしちゃった」
「いや、俺も自信ないけど」
 和は存在を消すように息を潜めていた。会話を聞くつもりもなかったけれど、目の前で繰り広げられる会話に勝手に耳がそばだつ。同じ学校だからこその会話。少し視線を落とした先に、自分のセーラー服の襟元を飾る赤いスカーフが目に入った。それが何だか寂しく思えて、和は指先で触った。
「今日、部活は?」
「休み」
「そーなんだ!」
 誰かの声が少し離れた場所から響いてくる。それは彼女の名前だったようで、彼女はそちらに「今行く!」と大きな声で返事をした。
「じゃあね、鳴海。おつかれー」
 女の子は去り際に、鳴海の腕に軽く触れていった。鳴海はそれを気に留めることなく、「おつかれ」と小さく手を振った。
 鳴海、と親しく彼を呼ぶ明るい声も。気軽に触れられる手も、自分には持ち合わせていないな、と和は、頭の中に今も残る、鳴海の腕に触れていった女の子の手を思い出しだしながら考えていた。
 モヤモヤと広がっていく胸の締め付けは、あの日の夜のものによく似ている。しかし、それ以上に強烈な痛みをはらんでいて、和は唇を噛んだ。
「ごめん、同じクラスの奴で」
「そうなんだ」
 和は慌てて笑顔を作り相槌を打つ。鳴海は気付いていないようで、「なんの話してたっけ」と呟いていた。
「ええと……ああ、そうだ! よかったらさ、猫、見て行かない?」
全く予想もしていなかった誘い文句に、和は「猫?」と首を傾げた。

 鳴海の後ろをついて、和はグラウンドの外を歩く。猫というのは、以前鳴海が写真を見せてくれた、プールに住みついているという黒猫のことらしい。
「勝手に入って大丈夫かな。私、違う学校なのに」
と和はびくびくと辺りを見回す。見つかって誰かに怒られたりしないだろうか。
「大丈夫、大丈夫。見つからないだろうし、仮に見つかったとしても俺が何とかするよ」
 こっち、と鳴海は屋外プールへと続く門を開けた。おそるおそる、和は足を踏み入れる。爽やかなブルーに染まった二十五メートルプールが視界に飛び込んできた。塩素の香りが風に乗って、和の鼻をくすぐる。
「プール周りの茂みに住んでるみたいでさ」
 
 そう言いながら、鳴海は「猫~」と呼びながらプールサイドを歩く。すると、ガサガサと茂みの草をかき分けて黒猫がひょっこりと顔を出した。プールを取り囲むフェンスの一部に穴が空いているようで、猫はそこからプールサイドへと上がってくる。
「お、いたいた。猫、こっちこい」
 鳴海が猫と目線を合わせるようにしゃがみ込み手を差し出すと、ゆっくりと近づいてきていた猫は急に背中の毛を逆立ててシャーと悪魔のような顔に変わる。
「本当に威嚇されるんだね」
「俺、お前に何もしてないだろ」
 今日もダメだったとがっくりと肩を落とす鳴海の隣に、和も同じようにしゃがみ込んだ。黒猫はスンスンと警戒するように匂いを嗅ぎながら、そろそろと和に近寄る。和がそっと指を差し出すと、猫は「フン」と溜息のように息を吐き出してから、和の手に顎を擦り付けた。
「なんで……」
「藤原くんと前世で何かあったとか」
「ええ?」
 和は猫の顎の下をこしょこしょとくすぐるように撫でる。ふわふわとした毛並みが気持ちいい。猫もゆっくりと目を細めた。鳴海は自分の膝の上で肘をつき、掌に頬を乗せると「まぁいいけどね」と苦く笑った。
 静かで穏やかな時間が流れる。風でときどき水面が揺れるのか、プールからたぷたぷと音が響いていた。
 知らない匂いだ、と和は思う。高校という種類は同じでも、校内に漂う雰囲気や空気が違う。
 胸に薄っすらと広がる、例えようのないモヤがまた広がっていくのを感じて、和は口を引き結んだ。
「……なごちゃん?」
 窺うような声。ハッとして振り向けば、顔を覗き込む鳴海と目が合った。
「元気ない?」
「あ、ううん! そんなことないよ。猫、可愛いなって夢中になってただけ」
 少し乱雑に撫でてしまったからだろうか。猫は軽く身を引くと、和から距離を取った。「あ、」と和は手を引っ込める。
 こちらの真意を探すような真っ直ぐすぎる鳴海の視線から逃れるように、和は自分の立てた膝に顔を埋めた。
「本当に、元気がないとかじゃないの。怖いとも、思ってない」
 まずは心配かけないようにそれだけは伝えなければと和はぽつぽつと話し出す。その声は情けなく、くぐもった。
「ただ……」
 そう続けて、続きの言葉はうまく吐き出せなかった。どくどくと、心臓がうるさく鼓動を強める。
「ただ?」
「ただ……私も、藤原くんのこと、『鳴海くん』って呼びたいなって、思っただけ」
 体を小さくして、和は絞り出すようにそう呟いた。顔は上げられなかった。なぜか分からないけれど、泣いてしまいそうだったから。そんな顔、鳴海には見られたくなかった。
 ここへ来る前に、大地に聞かれた「好きなの?」という言葉が頭の中で何度も響いている。
 もう一歩、踏み込みたい。近付きたい。この気持ちを、恋って呼ぶのだろうか。
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