君と越えるブルー
第16話
「教えて」と言ってくれた鳴海に、和はこくりと一度頷いた。
「前に、知らない男の人に触られたことがあるって言ったでしょ」
「ああ、うん。だから、男の人が怖い……って」
うん、と和は自分の左腕を触った。
「小学五年生のときだったの。夏休み、ショッピングモールのエレベーターの中だった。三階から下りようと思って乗ったエレベーターに、後から乗ってきた人がいて……」
和は顔を歪める。「ごめんね」、「怖くないからね」。そう迫り、笑う男の人の顔は、見たことがないものを見ている気分になった。その人の体がとても大きな影のように感じて、そのまま飲み込まれてしまうんじゃないかって思った。
「すぐに二階で止まって。そこの階から乗ろうとしてくれた人が助けてくれたから、腕を掴まれたぐらいだったんだけれど……」
でも、と和は続けた。
「それから男の人が怖くなった」
ふとした瞬間に、あの男の人の顔が重なってしまう。些細な仕草が、自分に向かって伸びて来る得体の知れない『何か』に見えてしまう。
「……エレベーターにも乗れなくなっちゃった」
また同じことが起きるんじゃないか。あのとき、エレベーターがすぐ下の階で止まってくれなかったら、自分はどうなっていたのだろう。次は、もう逃げられないかもしれない。助けてもらえないかもしれない。
掴まれた左腕には、今もその人のじっとりと汗ばんだ生ぬるい体温が残っている。それは、どれだけ洗っても取れない。その感触は、腕から全身に広がっていくようだった。そして、和の心を蝕んでいった。
「病院にはその治療で通ってるの。中学一年生くらいまでは、クラスメイトの男の子と話すこともできなかったんだよ」
だいぶ良くなってるんだ、と微笑む和とは対照的に、鳴海は顔を曇らせた。
「高校も、最初は女子校に行く予定だったの。でも、病院の先生と親に薦められて、大地と一緒に潮高に通うことにしたんだ。大地とお父さんだけは男の人だけれど平気だったし、男の子が同じ教室にいても、私の事情を知っていてサポートできる人が近くにいることで良いリハビリになるんじゃないかなって」
和は苦く笑って小首を傾げた。まだ一口も飲んでいないアイスココアの氷がグラスの中で動いて、軽やかな音を鳴らした。
「……でも、今もまだ、男の人の近くにいると緊張して、手が震える。防犯ブザーも手離せない。前に藤原くんに見せてしまったパニックも、時々、ある」
和は一度、唇を引き結んだ。
グラスを握っていた手を膝に持って行く。それと同時に視線は下がっていった。テーブルの下で震える手を、ぎゅっと握り込む。
「それでも……藤原くんの傍にいたいの」
その声は消え入りそうなくらい小さかった。
「藤原くんが恋人としたいことは、私はすぐにはできないかもしれない。それでも、藤原くんの隣にいるのは私が良いって思ってしまったの」
勝手に流れてしまった涙を鳴海から隠すように、和は両手で顔を覆う。
「こんな私でも、また会ってくれる? 藤原くんを、好きでいても良い?」
自分勝手でごめんね、と和は紡ぐ。その涙まじりの声は掌に吸い込まれていった。
「……なごちゃん」
時々相槌を打ちながらも、途中で言葉を挟むことなく最後まで話を聞いてくれていた鳴海が、短い沈黙のあとに優しい声色で和の名前を呼んだ。
「ずっと隣にいてよ。俺も、なごちゃんの隣にいるのは俺が良い」
「ねぇ、なごちゃん。顔見せて?」と柔らかく心を撫でてくれるような声。顔を覆っていた両手の指を薄く開くと、その隙間から鳴海のとても嬉しそうな目と目が合った。
「……でも、手を繋ぐこともできないかもしれない」
「いいよ」
ぽつりと零した和の不安を、鳴海は穏やかに受け止める。
「体に触れることだけじゃないと思うんだ、距離の近さって」
そうだなぁ、と鳴海は少しだけ考え込む仕草をする。数秒の後、「例えば……」と口を開いた。
「『鳴海くん』って、俺のこと呼ぶとか」
優しさの中に少しだけ込められた茶目っ気。柔らかく細められる鳴海の瞳に捕らえられ、和の涙で濡れて赤くなった頬にまた違う紅が差した。
「……鳴海、くん」
両手を顔から離して、そっとその呼び方で鳴海の名前を口にしてみる。そう呼びたいと言ったのは自分なのに改めて声に出してみると、想像以上の恥じらいが込み上げてきて俯いた。距離の近さは、確かに感じるけれど……。
「なぁに、なごちゃん」
様子を窺おうと顔を上げた瞬間。どこか艶やかな笑みで鳴海に首を傾げられて、和の体温は逆上せてしまいそうなほど急上昇した。
くらくらと眩暈まで起こしてしまいそうで、「ちょっと、まって」と和はまた両手で顔を覆うのだった。
「前に、知らない男の人に触られたことがあるって言ったでしょ」
「ああ、うん。だから、男の人が怖い……って」
うん、と和は自分の左腕を触った。
「小学五年生のときだったの。夏休み、ショッピングモールのエレベーターの中だった。三階から下りようと思って乗ったエレベーターに、後から乗ってきた人がいて……」
和は顔を歪める。「ごめんね」、「怖くないからね」。そう迫り、笑う男の人の顔は、見たことがないものを見ている気分になった。その人の体がとても大きな影のように感じて、そのまま飲み込まれてしまうんじゃないかって思った。
「すぐに二階で止まって。そこの階から乗ろうとしてくれた人が助けてくれたから、腕を掴まれたぐらいだったんだけれど……」
でも、と和は続けた。
「それから男の人が怖くなった」
ふとした瞬間に、あの男の人の顔が重なってしまう。些細な仕草が、自分に向かって伸びて来る得体の知れない『何か』に見えてしまう。
「……エレベーターにも乗れなくなっちゃった」
また同じことが起きるんじゃないか。あのとき、エレベーターがすぐ下の階で止まってくれなかったら、自分はどうなっていたのだろう。次は、もう逃げられないかもしれない。助けてもらえないかもしれない。
掴まれた左腕には、今もその人のじっとりと汗ばんだ生ぬるい体温が残っている。それは、どれだけ洗っても取れない。その感触は、腕から全身に広がっていくようだった。そして、和の心を蝕んでいった。
「病院にはその治療で通ってるの。中学一年生くらいまでは、クラスメイトの男の子と話すこともできなかったんだよ」
だいぶ良くなってるんだ、と微笑む和とは対照的に、鳴海は顔を曇らせた。
「高校も、最初は女子校に行く予定だったの。でも、病院の先生と親に薦められて、大地と一緒に潮高に通うことにしたんだ。大地とお父さんだけは男の人だけれど平気だったし、男の子が同じ教室にいても、私の事情を知っていてサポートできる人が近くにいることで良いリハビリになるんじゃないかなって」
和は苦く笑って小首を傾げた。まだ一口も飲んでいないアイスココアの氷がグラスの中で動いて、軽やかな音を鳴らした。
「……でも、今もまだ、男の人の近くにいると緊張して、手が震える。防犯ブザーも手離せない。前に藤原くんに見せてしまったパニックも、時々、ある」
和は一度、唇を引き結んだ。
グラスを握っていた手を膝に持って行く。それと同時に視線は下がっていった。テーブルの下で震える手を、ぎゅっと握り込む。
「それでも……藤原くんの傍にいたいの」
その声は消え入りそうなくらい小さかった。
「藤原くんが恋人としたいことは、私はすぐにはできないかもしれない。それでも、藤原くんの隣にいるのは私が良いって思ってしまったの」
勝手に流れてしまった涙を鳴海から隠すように、和は両手で顔を覆う。
「こんな私でも、また会ってくれる? 藤原くんを、好きでいても良い?」
自分勝手でごめんね、と和は紡ぐ。その涙まじりの声は掌に吸い込まれていった。
「……なごちゃん」
時々相槌を打ちながらも、途中で言葉を挟むことなく最後まで話を聞いてくれていた鳴海が、短い沈黙のあとに優しい声色で和の名前を呼んだ。
「ずっと隣にいてよ。俺も、なごちゃんの隣にいるのは俺が良い」
「ねぇ、なごちゃん。顔見せて?」と柔らかく心を撫でてくれるような声。顔を覆っていた両手の指を薄く開くと、その隙間から鳴海のとても嬉しそうな目と目が合った。
「……でも、手を繋ぐこともできないかもしれない」
「いいよ」
ぽつりと零した和の不安を、鳴海は穏やかに受け止める。
「体に触れることだけじゃないと思うんだ、距離の近さって」
そうだなぁ、と鳴海は少しだけ考え込む仕草をする。数秒の後、「例えば……」と口を開いた。
「『鳴海くん』って、俺のこと呼ぶとか」
優しさの中に少しだけ込められた茶目っ気。柔らかく細められる鳴海の瞳に捕らえられ、和の涙で濡れて赤くなった頬にまた違う紅が差した。
「……鳴海、くん」
両手を顔から離して、そっとその呼び方で鳴海の名前を口にしてみる。そう呼びたいと言ったのは自分なのに改めて声に出してみると、想像以上の恥じらいが込み上げてきて俯いた。距離の近さは、確かに感じるけれど……。
「なぁに、なごちゃん」
様子を窺おうと顔を上げた瞬間。どこか艶やかな笑みで鳴海に首を傾げられて、和の体温は逆上せてしまいそうなほど急上昇した。
くらくらと眩暈まで起こしてしまいそうで、「ちょっと、まって」と和はまた両手で顔を覆うのだった。