君と越えるブルー

第3話

 和が再び鳴海に出会ったのは、一週間後の土曜日のことだった。
「なご、補習終わった? ちょっと手伝ってくれると嬉しいんだけど」
 土曜日に行われる自由参加の補習が終わったタイミングで、大地から通話がかかってきた。
 どうやら、今日、水泳部は他校との合同練習と練習試合があるらしい。その準備が間に合っていないようで、手を貸して欲しいとのことだった。
 和はそれを二つ返事で了承すると、急いで水泳部が活動している屋内プールへと向かった。
「なごちゃん、いつも本当に頼りになります」
「私で良ければいつでも。大地の言う通り、家に帰ってもゴロゴロしているだけなので」
 自虐を交えて言えば、環は「そんなことないでしょ」と笑った。
 大量のタオルをカゴに入れて、環と一緒にプールサイドへと出る。もう一人のマネージャーである二年生の女子生徒が床の水切りをしていて、挨拶を交わす。そのとき、先日マネージャーの代わりを務めてくれてありがとう、と和はお礼を言われた。
「最初は練習試合だけだったんだけれど、急遽練習も合同ですることになっちゃったの」
 だから準備がバタバタで、と環は溜息を吐いた。幼いころから知っているから、しっかり者の環がいる中で準備が間に合わないことなんてあるのかと不思議だったが、急なスケジュール変更だったから、こんなにバタバタしているのかと和は納得した。
「お願いします」
 ハキハキと誠実な声がプールサイドに響き渡った。それに続くように、揃った声が同じように反響する。環は「あ、来ちゃった」とそれを振り返った。どうやら、今日の練習相手が来たようだ。
「ここ、お願いしてもいい?」
「はい、やっておきますね」
「ありがとう」
 環は水切りしていた二年生のマネージャーにも声をかけて、小走りで駆けていく。潮高の部員たちも部室のほうから集まってきていた。潮高の部長の号令が掛かる。その様子を備品の整理をしながら見ていた和は、一瞬遅れて、相手校が南藤井第一だと気付いた。
 整列した人の中、端のほうに鳴海がいることに気付く。向こうも和に気付いていたようで、目が合った。「あ」と口が動くのも、他の人にバレないように小さく手を振るのも、ほぼ同時だった。
 それからすぐに練習が開始されてしまったため、和と鳴海は会話を交わす一瞬の隙さえなかった。

 他校が加わったことで、いつもの倍以上の部員数だからかジャグに入れたドリンクは光の速さで無くなっていく。
 ドリンク追加してきますとタイムの記録を取っている環に声をかけて、和はプールサイドを後にした。
 更衣室の隣に小さめの家庭科室のような部屋――給水室がある。そこにはシンクが設置されていて、ドリンクが作れるようになっていた。
 和は棚からスポーツドリンクの粉末を手に取り、それをジャグの中に入れていく。水を注ぐ音に混ざって、扉が開く音がした。その音に、一度心臓が大きく拍動した。
「手伝って来いって部長に言われて」
 おそるおそる振り返った先にいたのは鳴海で、先程まで着ていたジャージ姿ではなく、上は白い半袖のTシャツに変わっていた。
 髪が濡れている様子もない。どうやら今日も水の中には入っていないようだ。
「そうだったんだ。でも大丈夫だよ。あと溶かして、氷入れるくらいだし」
「プールサイドまで俺が運ぶ。重いでしょ」
「でも……」
 和はちらりと鳴海の肩を見た。
 鳴海は小首を傾げてから、その視線の意味に気付き「ああ」と口を開く。
「これ持つくらい平気」
「じゃあ……。ジャグ、もう一つ増やそうかな。その一つをお願いしてもいい?」
「了解」
 作るのも手伝うよと言う鳴海に、棚の上にあるジャグを取って欲しいと和は頼む。鳴海はそれを取ると、軽く水洗いをしてから先程の和と同じように粉末と水を入れていく。
 水がジャグの中に落ちていく音が静かに響いている。鳴海がドリンク作りに集中しているからか、会話は特にない。穏やかな時間が流れ始める。いつの間にか反射的にうるさくなっていた和の心臓も落ち着いていた。
「ねぇ」
「あ、終わった? ありがとう、」
 と、背の高い鳴海を見上げようと顔を動かした。しかし、思ったよりも鳴海の顔が近くにあった。彼がシンクに手をついて、少しだけ身を傾けている。
 視線が絡まる。どきり、と心臓が鳴った。
 思わず顎を引く。
 けれど、それは今までみたいな、嫌な心臓の鳴り方ではなかった。
「連絡先、教えてほしい」
 脈絡なく、全く予想もしていなかったことを言われて、和の口からは「えっ」と声が漏れた。
「よかったら」とスマートフォンをズボンのポケットから取り出した鳴海に、和もスカートのポケットの中に慌てて手を突っ込んだ。
「あの、あんまり、こういうの慣れてなくて、」
 微かに震える指でメッセージトークアプリのアイコンをタップした。見慣れた画面が開く。家族や大地、それから友達数人の名前が並んでいた。
「俺もあんまりよく分かんないけど」
 ここ押して、と鳴海は自分の画面を見せながら、友達追加の画面へ誘導していく。鳴海が表示してくれたQRコードを読み取ると、「藤原鳴海」という名前が友達一覧に追加された。
「笹原……ごめん、なんて読むの? 下」
 鳴海が自分のスマートフォンを見ながら首を傾げている。
「あ、なごみって……」
 和の言葉を遮り、勢いよく開かれた扉。和と鳴海がそちらへ顔を向ければ、険しい顔をした大地が大股で近付いてくる。
 そして和と鳴海の間に割り込むようにその大きな体を滑り込ませた。
 先ほどまで水の中にいたからだろうか。当たった大地の背中は、ジャージを羽織っているけれど少し湿っている。後ろ手に和は体を軽く押され、物理的に鳴海との距離が開いた。
「……あんまり近付くんじゃねぇよ」
 大地の低い声で、ピリッと空気が張り詰める。鳴海の姿は和からは上手く見えなかった。どんな顔をしているのだろう。大地の黒髪の先から、ぽたぽたと水滴が落ちてジャージの肩を濡らしている。
「大地。私は、大丈夫だから」
 大地の腕に触れる。
 プールのほうから「練習再開するぞ」という部長の声が響いてきた。和はその声にホッと表情を緩める。
「ほら、大地。練習に戻ろう」
 大地の背中を押して、出口のほうへ向かうように促す。
「じゃあ、俺はこれ持って行くから」
「あ、ありがとう」
 一つだけをお願いしたはずなのに、鳴海はジャグを二つ手にして、先に部屋を出て行った。
――どう、感じただろう。
 大地の険しい顔。自分を隠すような態度。きっと普通ではないと思っただろうな、と和は小さく溜息を吐いた。
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