君と越えるブルー
第6話
和は苺ケーキとアイスカフェモカを頼んで、鳴海はチョコケーキとレモンスカッシュを頼んだ。
それを食べながら、ゆっくりと色々な話をした。
潮高は一組、二組というクラス表記だけれど、南藤井第一はA組、B組という表記であること。
お互いに英語が少し苦手だということ。
南藤井第一は屋外プールしかなく、寒い時期は近隣の屋内プールにまで行かなければいけないらしいということ。
水泳を始めたのは和や大地より少し遅く、小学一年生から。そして、自由形の選手だということ。
「大地が、早く藤原くんと戦いたいって言ってたよ」
「大地?」
鳴海が「誰だっけ」と首を傾げる。
「私の幼馴染なんだけど。ええっと、潮高の水泳部で青木大地っていうんだけど。この前の合同練習のとき……」
「あなたに近付くなと言った人です」とは言い難く、淀む。しかしそれで察しがついてくれたようだ。
「ああ。あの、顔が怖い人か」
大地、そんなに怖い顔してたんだ、と和は苦笑する。
「中学のとき、一度も藤原くんに勝てなかったって言ってた。だから、早くリベンジしたいみたい」
「そうなんだ」
鳴海の返事は、どこか遠いところにあるように思えた。和はケーキを切り分けていたフォークを止めて、窺うように慎重に口を開いた。
「……答えたくなかったら、大丈夫なんだけど」
前置きをする。
「肩は、結構痛むの?」
鳴海はちょうどケーキを食べ終わったところだったようだ。お皿の上にフォークが置かれる。レモンスカッシュの中に浮かんでいた氷が少し溶けて動いたのか、小さく音を鳴らした。
「この前の合同練習のとき、少し泳いでいたでしょ? そのとき、少し左肩の動きが気になって」
「あー……」
鳴海は自分の左肩を右手で摩った。
「痛めたのが中三の夏前で、すぐに治療に入ったから。もう、普通に泳いで良いって言われるくらいには治ってるんだけど」
一度、鳴海が目を伏せる。
「泳いでると、急に強張って上手く動かなくなるときがあるんだ。たぶん、笹原さんが見たのはそのタイミングだったんじゃないかな」
それは、とても納得ができる説明だった。
「大したことないよ」とふわりと笑う鳴海に、和はホッと息をつく。
あの日から、プールサイドで自分の肩を握る鳴海の姿が気にかかっていた。けれど、鳴海の話を訊いて、考えすぎだったかと胸を撫で下ろした。
「はい。この話は、これでお終い。食べ終わったらどうしよっか」
まだ時間大丈夫? とスマートフォンで時間を見ながら尋ねてきた鳴海に、和は「うん」と頷く。時間は十五時を少し過ぎたころだった。もう一時間も鳴海と一緒に過ごしているのかと驚く。
初めて一緒に出掛けた人とは思えないほど鳴海との会話は楽しく、緊張の名残りすら忘れてしまうくらいだった。
「そろそろ出ようか」
次の行き先は、ケーキも飲み物も食べ終わるまでの間には決まらなかった。店を出て、歩きながら決めようという鳴海の意見に賛成して、椅子から立ち上がる。
会計を済ませて店を出てすぐに、和と鳴海は同時に「あ」と声を上げた。いつの間にか、雨が降り出していた。庇から雫が落ちていく。
「もうちょっともつかと思ったんだけど」
「藤原くん、傘は?」
「持って来てないです……」
「大丈夫。私、折り畳みあるから。一緒に入ろう」
和はショルダーバッグの中から傘を取り出した。最近、新調したばかりの折り畳み傘。無地の淡いブラウンで、その落ち着いた色味が気に入っている。
「ちょっと二人で入るには狭いかもしれないけど」
「ありがとう、助かる。俺が持ったほうがいいかも。高さ的に」
和が持つ開いた傘へ鳴海の手が伸びる。
「ありがと、」
と、その手へ傘を受け渡そうとしたときだ。ギュッと自分の体に急ブレーキが掛かるのを感じる。
どくどくと早鐘を打ちだす心臓。和の喉が鳴った。
自分に向かって伸びてくる手が、いやに大きく、得体の知れないもののように見えてしまった。
雨で浮き上がったアスファルトの香り。それを混ぜた風が、和の腕をさわさわと撫でる。それはあの日の感触によく似ているような気がして、背中に嫌な汗が伝っていった。
鳴海には、まだ気付かれていない。和の手から傘を受け取った彼は、「そういえば買いたい本があるんだけど」と、これからの行き先を提案しながら歩き出した。
狭い傘の中では、必然的に距離が縮まる。
(あんなに楽しかったのに、なんで)
ぐらぐらと歪む視界が気持ち悪い。袖が触れるたびに、和は微かに肩を縮めた。震える手を誤魔化すために、スカートの裾を握る。
こんな風になってしまっていることが、もし、バレてしまったら……。
「笹原さん、大丈夫?」
鳴海が足を止め、和の顔を覗き込んだ。和の返事が、どんどんと鈍くなっていくことに気付いたのだろう。
「あ、あの……」
唇が震えて言葉が上手く出ない。口元に持って行った指先が震えているのを見て、鳴海は眉間に皺を寄せた。
「体調悪そうだけど、」
そっと鳴海の手が和の顔の近くまで伸びて来たとき、和の肩が大きく跳ねた。それは次第に激しい震えになって、ガタガタと足にまで伝染していく。
犬の呼吸のように息が上がる。胸が苦しい。
困った顔をさせてしまった。あんな風に体を震わせたら、まるで拒否しているみたいだ。絶対、傷つけてしまった。
「ごめ……ごめんなさい、」
「いや……俺は、」
「わ、私……っ、男の人が、怖くてっ」
泣きたくなんてないのに、涙が目から零れ落ちる。絞り出したその声は、傘にぶつかる雨音の中に弾けて消えていった。
それを食べながら、ゆっくりと色々な話をした。
潮高は一組、二組というクラス表記だけれど、南藤井第一はA組、B組という表記であること。
お互いに英語が少し苦手だということ。
南藤井第一は屋外プールしかなく、寒い時期は近隣の屋内プールにまで行かなければいけないらしいということ。
水泳を始めたのは和や大地より少し遅く、小学一年生から。そして、自由形の選手だということ。
「大地が、早く藤原くんと戦いたいって言ってたよ」
「大地?」
鳴海が「誰だっけ」と首を傾げる。
「私の幼馴染なんだけど。ええっと、潮高の水泳部で青木大地っていうんだけど。この前の合同練習のとき……」
「あなたに近付くなと言った人です」とは言い難く、淀む。しかしそれで察しがついてくれたようだ。
「ああ。あの、顔が怖い人か」
大地、そんなに怖い顔してたんだ、と和は苦笑する。
「中学のとき、一度も藤原くんに勝てなかったって言ってた。だから、早くリベンジしたいみたい」
「そうなんだ」
鳴海の返事は、どこか遠いところにあるように思えた。和はケーキを切り分けていたフォークを止めて、窺うように慎重に口を開いた。
「……答えたくなかったら、大丈夫なんだけど」
前置きをする。
「肩は、結構痛むの?」
鳴海はちょうどケーキを食べ終わったところだったようだ。お皿の上にフォークが置かれる。レモンスカッシュの中に浮かんでいた氷が少し溶けて動いたのか、小さく音を鳴らした。
「この前の合同練習のとき、少し泳いでいたでしょ? そのとき、少し左肩の動きが気になって」
「あー……」
鳴海は自分の左肩を右手で摩った。
「痛めたのが中三の夏前で、すぐに治療に入ったから。もう、普通に泳いで良いって言われるくらいには治ってるんだけど」
一度、鳴海が目を伏せる。
「泳いでると、急に強張って上手く動かなくなるときがあるんだ。たぶん、笹原さんが見たのはそのタイミングだったんじゃないかな」
それは、とても納得ができる説明だった。
「大したことないよ」とふわりと笑う鳴海に、和はホッと息をつく。
あの日から、プールサイドで自分の肩を握る鳴海の姿が気にかかっていた。けれど、鳴海の話を訊いて、考えすぎだったかと胸を撫で下ろした。
「はい。この話は、これでお終い。食べ終わったらどうしよっか」
まだ時間大丈夫? とスマートフォンで時間を見ながら尋ねてきた鳴海に、和は「うん」と頷く。時間は十五時を少し過ぎたころだった。もう一時間も鳴海と一緒に過ごしているのかと驚く。
初めて一緒に出掛けた人とは思えないほど鳴海との会話は楽しく、緊張の名残りすら忘れてしまうくらいだった。
「そろそろ出ようか」
次の行き先は、ケーキも飲み物も食べ終わるまでの間には決まらなかった。店を出て、歩きながら決めようという鳴海の意見に賛成して、椅子から立ち上がる。
会計を済ませて店を出てすぐに、和と鳴海は同時に「あ」と声を上げた。いつの間にか、雨が降り出していた。庇から雫が落ちていく。
「もうちょっともつかと思ったんだけど」
「藤原くん、傘は?」
「持って来てないです……」
「大丈夫。私、折り畳みあるから。一緒に入ろう」
和はショルダーバッグの中から傘を取り出した。最近、新調したばかりの折り畳み傘。無地の淡いブラウンで、その落ち着いた色味が気に入っている。
「ちょっと二人で入るには狭いかもしれないけど」
「ありがとう、助かる。俺が持ったほうがいいかも。高さ的に」
和が持つ開いた傘へ鳴海の手が伸びる。
「ありがと、」
と、その手へ傘を受け渡そうとしたときだ。ギュッと自分の体に急ブレーキが掛かるのを感じる。
どくどくと早鐘を打ちだす心臓。和の喉が鳴った。
自分に向かって伸びてくる手が、いやに大きく、得体の知れないもののように見えてしまった。
雨で浮き上がったアスファルトの香り。それを混ぜた風が、和の腕をさわさわと撫でる。それはあの日の感触によく似ているような気がして、背中に嫌な汗が伝っていった。
鳴海には、まだ気付かれていない。和の手から傘を受け取った彼は、「そういえば買いたい本があるんだけど」と、これからの行き先を提案しながら歩き出した。
狭い傘の中では、必然的に距離が縮まる。
(あんなに楽しかったのに、なんで)
ぐらぐらと歪む視界が気持ち悪い。袖が触れるたびに、和は微かに肩を縮めた。震える手を誤魔化すために、スカートの裾を握る。
こんな風になってしまっていることが、もし、バレてしまったら……。
「笹原さん、大丈夫?」
鳴海が足を止め、和の顔を覗き込んだ。和の返事が、どんどんと鈍くなっていくことに気付いたのだろう。
「あ、あの……」
唇が震えて言葉が上手く出ない。口元に持って行った指先が震えているのを見て、鳴海は眉間に皺を寄せた。
「体調悪そうだけど、」
そっと鳴海の手が和の顔の近くまで伸びて来たとき、和の肩が大きく跳ねた。それは次第に激しい震えになって、ガタガタと足にまで伝染していく。
犬の呼吸のように息が上がる。胸が苦しい。
困った顔をさせてしまった。あんな風に体を震わせたら、まるで拒否しているみたいだ。絶対、傷つけてしまった。
「ごめ……ごめんなさい、」
「いや……俺は、」
「わ、私……っ、男の人が、怖くてっ」
泣きたくなんてないのに、涙が目から零れ落ちる。絞り出したその声は、傘にぶつかる雨音の中に弾けて消えていった。