君と越えるブルー

第7話

「小学生のとき……っ、知らない人に触られたことがあって……っ、それでっ」
 地面に当たって跳ねた雨が、和の足元を濡らす。
 俯いた和の視界の中、一歩だけ自分から距離を置く鳴海の靴が見えた。物理的に開いた距離に安心しようとする自分の心が嫌だった。また、じわりと視界が滲んでいく。
「とりあえず、ゆっくり呼吸して。長く、ゆっくり息を吐いて」
 鳴海に言われた通り、和は意識して深く息を吐き出す。それは昔、パニックから過呼吸を起こしたときに保健の先生やお父さんによく言われていた言葉と同じだった。
 繰り返している内に徐々に呼吸が落ち着いてくる。どれだけ息を吸い込んでも苦しかった肺に空気が満たされていく感覚。
「いつも首から掛けてるやつ、ある?」
「う、うん。ある」
「それ、つけようか」
 頷いた和は震える手でバッグの中に見えたストラップを引っ張り出した。黄色い防犯ブザーがぶら下がるそれを自分の首に通す。いつも通りという安心感からだろうか。それとも、違う作業へと意識が持って行かれたからだろうか。ようやく体に平衡感覚が戻ってくる。和はもう一度ゆっくりと息を吐き出した。
「いつも防犯ブザー下げてるから、そういう感じのことなのかなって想像はしてた」
 鳴海が頭を下げる。傘が傾いて、パラパラと水滴を地面に落とした。
「ずっと無理させててごめん。これ以上はもう、俺と関わらなくて大丈夫だから。今日は、帰ろう」
 俺はここで帰るから、と鳴海は和の肩に傘を置く。間違っても手が触れてしまわないようにという、鳴海の気遣いが滲んでいた。
 じゃあ、と軽く右手を振って背を向けた鳴海に、和は焦る。引き止めなければ、と咄嗟に手を伸ばそうとしたけれど上手くいかなかった。鳴海のシャツに背中に雨が当たって、濃い青をした歪な水玉模様が出来ていく。
 今、このまま彼を帰してしまったら、もう二度と会えなくなってしまう気がする。彼はきっと、そういう優しさを持っている人だから。
 今日一日で見た鳴海の笑顔がいくつも頭に浮かんだ。
(私は、もっと藤原くんと……!)
 このまま終わってしまうなんて嫌だと焦る気持ちに押し出されて、
「藤原くん、まって……!」
狭まる喉で、和は精一杯の声を上げた。傘の柄を強く握り締める。
「私っ、今日、すごく楽しかったの。びっくりするくらい、楽しかったの」
 数メートル先で足を止めた鳴海が和を振り向いた。もつれそうになる足で、和は鳴海に駆け寄る。そして、鳴海がこれ以上濡れてしまうことがないように、傘を持つ手を目一杯伸ばした。冷たい雨雫が和の露出した首の後ろに、ぽつぽつと当たって滑り落ちていく。
「藤原くんのことが嫌だとか、それこそ怖いとかじゃなくて。頭が勝手に、昔のことを思い出して怖くなってしまうだけなの」
 和は真っ直ぐ、鳴海を見た。
「だから、私は、これからも藤原くんと、もっといっぱい遊びたい……!」
 鳴海の目が丸く見開かれる。そして、一瞬、何かを言いかけるように唇を薄く開いたけれどすぐに閉じた。視線が逸らされる。
「風邪引くから、とりあえず帰ろう」
「でも……」
「送っていくから」と鳴海は言った。「傘、持つよ」と、手を小さく差し出した彼に和はそっと傘を手渡す。
 夕暮れの雨の中、和たちの間に会話はなかった。そっと、何度か和は鳴海の横顔を窺ってみたけれど、真っ直ぐに前だけを見る鳴海の表情を読み取ることは難しかった。
「あ……私の家、ここ」
 住宅街にある赤茶色の屋根の家を和は指差した。
「今日は、ありがとう」
「いや、こっちこそ」
 傘……と、鳴海は一度、手に持っている和の傘を見た。しとしとと、まだ雨は降り続いている。
「そのまま家まで、」
「このまま、この傘、借りて帰っていい?」
 家まで使っていいよと言いかけた和の言葉に被せるように、鳴海が言った。
「笹原さんから遊びたいなんて言われたら、俺、調子に乗って何回も誘うと思うよ」
 ようやく目が合って、和は思わず息を飲む。
「俺がまた会って欲しいから、この傘、借りてもいい? そうしたら、傘を返すっていう口実ができるから」
 真っ直ぐに向けられた瞳に、縫い付けられてしまったように和は動けなかった。
「俺は、今も、それくらい笹原さんに会いたいって思ってる」
 返す言葉を見つけられないまま、和はただ頷いた。
 濡れたアスファルトに、世界は静かに色を溶かしていた。
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