君と越えるブルー
第8話
和が玄関先で靴を脱いでいると、お母さんが「早かったわね」とリビングから顔を出した。
「びしょ濡れじゃない。傘、持って行かなかったの?」
「う、ううん。持って行ったんだけど、ちょっとね」
パニックを起こしたことや、鳴海に傘を差しだしたときに濡れてしまったとは言えなくて、和は誤魔化す言葉を紡ぐ。
「雨、強かったの? 体冷えるから、早くシャワー浴びてきなさい。あ、折り畳み傘は出しておいて。明日、干しておくから」
錆びたらいけないし、と言うお母さんに、和は言葉を詰まらせた。傘は鳴海に貸してしまっていて手元にない。
「だ……大地に貸して帰ってきた!」
「隣の家なのに!?」
「いいでしょ、そういう日があっても。シャワー浴びてきます!」
これ以上会話をしたらボロが出てしまいそうで、和は足早にバスルームへと身を隠した。
明日の学校の準備と寝支度を済ませ、和は自分のベッドに寝転んだ。
自分しかいない静かな空間だからだろうか。今日一日のことが頭の中に次々に浮かんでくる。
和は唇を引き結んだ。
――遊びたいなんて言われたら、俺、調子に乗って何回も誘うと思うよ。
――俺は、今も、それくらい笹原さんに会いたいって思ってる。
帰り際の鳴海の眼差しと共に、鳴海が言ってくれた言葉が和の中で響いた。
とくとくと胸が鼓動を加速させる。それはほんの少しの痛みと一緒に甘い痺れを残すようだった。
怖い、とは違う。体を強張らせるような緊張とも違う、知らない鼓動が響いている。
(嬉しかった、な……)
和は掛け布団を口元まで引き上げた。次はいつ会えるだろうか。自分から、遊ぼうって誘ってみようか。自分でも追いつけない感情を抱えながら、和は目を閉じた。うまく、寝付けそうにはない。
「傘を返したい」と鳴海から連絡があったのは、それから三日後のことだった。和たちは、また次の日曜日に会う約束をする。
どこで会おうか、と話を進めていく中で、お互いの学校で間もなく同じ時期に一学期の期末テストがあることを知った。
『よかったら、図書館で一緒に勉強しない?』
そう誘ったのは、鳴海からではなく和からだった。連続でやり取りをしていたからか、既読がつくのは早かった。それまでテンポの良かった鳴海からの返事が止まる。
学校も違う。テスト範囲が同じとも限らない。それなのに、一緒に勉強しようなんておかしかっただろうか。誘い方を間違えたかなと不安が胸に広がり始めたとき、ピコンと可愛らしい音をスマートフォンが鳴らしてメッセージの受信を告げた。
『いいんですか?』
なぜかかしこまっている鳴海からの返事。そして、驚いた顔でこちらを勢いよく振り向いているような猫のスタンプが表示される。和は思わず、他に誰もいない自分の部屋でくすりと吹き出した。
そうして迎えた日曜日は、先週とは違いよく晴れていた。市内にある図書館はひとつだけで、和の家に近い場所にある。それもあってのことなのだろう。鳴海は和を迎えに行くと言った。
約束の時間五分前に家の外に出て、鳴海が来るのを待った。ちょうどそのタイミングで、隣の家から大地が自転車を引いて出て来るところと鉢合った。
「なごじゃん」
「大地。今から部活?」
「ああ。でも、今日は自主練だけど」
「もうすぐまた競技大会あるもんね」
「そ。なごは? どこか行くの?」
大地は和の前まで来ると自転車に跨った。
「うん。友達と図書館に勉強しに」
「ふぅん。田中とかと?」
大地の口から出た名前は、和がクラスで仲良くしている女の子のものだ。ううん、と和は素直に首を横に振った。
「藤原くんと」
うん? と大地は首を傾げて、眉間に大きな皺を寄せた。
「藤原? そんな奴いたっけ。何組の奴? え、てか、男?」
「大地も知ってる人だよ。南藤井第一の、藤原鳴海くん」
「ああ、藤原鳴海……」
あいつかー、という反応を見せた大地だったが、すぐに目を見開いて和を見た。「は!?」という大地の腹の底から出された声が、静かな休日の住宅街にこだまする。
「藤原鳴海!? なんで!?」
「ちょっと色々あって、最近、仲良くなったの」
「いや、仲良くなったって……。なご、」
何かを言いかけた大地の言葉を、「笹原さん」という声が遮った。和と大地が同時に振り返った先には、噂の鳴海が自転車を持って立っていた。
「出たな、藤原鳴海……!」
まるで敵が出て来たような言い方に今度は和が顔を顰め、「ちょっと」と大地を咎めた。しかし、鳴海は大して気に留めていないようで、大地の顔をじっくりと見た。
「誰……って、ああ、潮高の」
鳴海は思い出したようだ。
「今日も怖い顔してるね」
こそっと鳴海が和に言うものだから、和はついに笑い声をあげてしまった。「はぁ!?」とまた大地の声が響く。失礼な奴だな、と吠えている。
「大地、早く練習行きなよ」
近所迷惑だよ、と和は笑いながら大地に早く学校へ行くように促した。
「いや、でも、なご。こいつと二人で本当に大丈夫なのかよ」
大地が和を見る。その目には、心配という二文字が色濃く浮かんでいるようだった。
「大丈夫だよ、大地」
「……でも、」
「藤原くんは、大丈夫」
和は大地の目を真っ直ぐに見つめる。大地はまだ何か言いたそうに口を一度二度開いた。けれど、選べる言葉がなかったのだろう。
「あー、もう!」と自分の頭をガシガシと掻く。
「何かあったらすぐ連絡しろよ、俺が迎えに行く!」
「何も起きないよ」
「わかんねーだろ、そんなの!」
防犯ブザーちゃんとつけてるな、と大地は和の首元を確認する。それから、キッと目つきを鋭くして大地は鳴海の方を振り向いた。
「藤原、なごに変なことしたら許さねぇからな」
大地は低い声でそう言うと、「じゃあな!」と吐き捨てるようにして、自転車のペダルを踏み込んだ。
「お前、次の大会、ぜってぇ出てこいよ!」
数メートル先で振り向いた大地が、片手をハンドルから離して鳴海を指差して言う。
「ごめんね、変な奴で」
「いや、全然大丈夫。……俺たちも行こっか?」
この前のカフェのときと同じ。「入ろうか」と言ったときと同じ、遠慮がちなこちらを窺うトーン。その言い方が好きだな、と和は思いながら、「うん」と頷いた。
「あ、出発前にひとつだけ」
一歩踏み出そうとしたとき、鳴海がそう言って和を引き止めた。
「今日は、何かおかしいなとか、負担に感じることがあったらすぐに言って」
笹原さんの気持ちが最優先だから、と鳴海が真剣な口調で言う。
「すぐに帰ることになっても俺は大丈夫だから。俺と一緒にいるときは、無理だけは絶対しないで」
「うん、ありがとう。約束する」
和が頷くと、鳴海は「じゃあ、出発」とその表情を和らげた。
鳴海の柔らかな表情を見て、和は気付く。そういえば今日は、鳴海に出会ったあとも手が震えていないことに。
夏の訪れを感じさせるような陽射しの中、涼やかな風が吹き抜けて和の髪を揺らした。
「びしょ濡れじゃない。傘、持って行かなかったの?」
「う、ううん。持って行ったんだけど、ちょっとね」
パニックを起こしたことや、鳴海に傘を差しだしたときに濡れてしまったとは言えなくて、和は誤魔化す言葉を紡ぐ。
「雨、強かったの? 体冷えるから、早くシャワー浴びてきなさい。あ、折り畳み傘は出しておいて。明日、干しておくから」
錆びたらいけないし、と言うお母さんに、和は言葉を詰まらせた。傘は鳴海に貸してしまっていて手元にない。
「だ……大地に貸して帰ってきた!」
「隣の家なのに!?」
「いいでしょ、そういう日があっても。シャワー浴びてきます!」
これ以上会話をしたらボロが出てしまいそうで、和は足早にバスルームへと身を隠した。
明日の学校の準備と寝支度を済ませ、和は自分のベッドに寝転んだ。
自分しかいない静かな空間だからだろうか。今日一日のことが頭の中に次々に浮かんでくる。
和は唇を引き結んだ。
――遊びたいなんて言われたら、俺、調子に乗って何回も誘うと思うよ。
――俺は、今も、それくらい笹原さんに会いたいって思ってる。
帰り際の鳴海の眼差しと共に、鳴海が言ってくれた言葉が和の中で響いた。
とくとくと胸が鼓動を加速させる。それはほんの少しの痛みと一緒に甘い痺れを残すようだった。
怖い、とは違う。体を強張らせるような緊張とも違う、知らない鼓動が響いている。
(嬉しかった、な……)
和は掛け布団を口元まで引き上げた。次はいつ会えるだろうか。自分から、遊ぼうって誘ってみようか。自分でも追いつけない感情を抱えながら、和は目を閉じた。うまく、寝付けそうにはない。
「傘を返したい」と鳴海から連絡があったのは、それから三日後のことだった。和たちは、また次の日曜日に会う約束をする。
どこで会おうか、と話を進めていく中で、お互いの学校で間もなく同じ時期に一学期の期末テストがあることを知った。
『よかったら、図書館で一緒に勉強しない?』
そう誘ったのは、鳴海からではなく和からだった。連続でやり取りをしていたからか、既読がつくのは早かった。それまでテンポの良かった鳴海からの返事が止まる。
学校も違う。テスト範囲が同じとも限らない。それなのに、一緒に勉強しようなんておかしかっただろうか。誘い方を間違えたかなと不安が胸に広がり始めたとき、ピコンと可愛らしい音をスマートフォンが鳴らしてメッセージの受信を告げた。
『いいんですか?』
なぜかかしこまっている鳴海からの返事。そして、驚いた顔でこちらを勢いよく振り向いているような猫のスタンプが表示される。和は思わず、他に誰もいない自分の部屋でくすりと吹き出した。
そうして迎えた日曜日は、先週とは違いよく晴れていた。市内にある図書館はひとつだけで、和の家に近い場所にある。それもあってのことなのだろう。鳴海は和を迎えに行くと言った。
約束の時間五分前に家の外に出て、鳴海が来るのを待った。ちょうどそのタイミングで、隣の家から大地が自転車を引いて出て来るところと鉢合った。
「なごじゃん」
「大地。今から部活?」
「ああ。でも、今日は自主練だけど」
「もうすぐまた競技大会あるもんね」
「そ。なごは? どこか行くの?」
大地は和の前まで来ると自転車に跨った。
「うん。友達と図書館に勉強しに」
「ふぅん。田中とかと?」
大地の口から出た名前は、和がクラスで仲良くしている女の子のものだ。ううん、と和は素直に首を横に振った。
「藤原くんと」
うん? と大地は首を傾げて、眉間に大きな皺を寄せた。
「藤原? そんな奴いたっけ。何組の奴? え、てか、男?」
「大地も知ってる人だよ。南藤井第一の、藤原鳴海くん」
「ああ、藤原鳴海……」
あいつかー、という反応を見せた大地だったが、すぐに目を見開いて和を見た。「は!?」という大地の腹の底から出された声が、静かな休日の住宅街にこだまする。
「藤原鳴海!? なんで!?」
「ちょっと色々あって、最近、仲良くなったの」
「いや、仲良くなったって……。なご、」
何かを言いかけた大地の言葉を、「笹原さん」という声が遮った。和と大地が同時に振り返った先には、噂の鳴海が自転車を持って立っていた。
「出たな、藤原鳴海……!」
まるで敵が出て来たような言い方に今度は和が顔を顰め、「ちょっと」と大地を咎めた。しかし、鳴海は大して気に留めていないようで、大地の顔をじっくりと見た。
「誰……って、ああ、潮高の」
鳴海は思い出したようだ。
「今日も怖い顔してるね」
こそっと鳴海が和に言うものだから、和はついに笑い声をあげてしまった。「はぁ!?」とまた大地の声が響く。失礼な奴だな、と吠えている。
「大地、早く練習行きなよ」
近所迷惑だよ、と和は笑いながら大地に早く学校へ行くように促した。
「いや、でも、なご。こいつと二人で本当に大丈夫なのかよ」
大地が和を見る。その目には、心配という二文字が色濃く浮かんでいるようだった。
「大丈夫だよ、大地」
「……でも、」
「藤原くんは、大丈夫」
和は大地の目を真っ直ぐに見つめる。大地はまだ何か言いたそうに口を一度二度開いた。けれど、選べる言葉がなかったのだろう。
「あー、もう!」と自分の頭をガシガシと掻く。
「何かあったらすぐ連絡しろよ、俺が迎えに行く!」
「何も起きないよ」
「わかんねーだろ、そんなの!」
防犯ブザーちゃんとつけてるな、と大地は和の首元を確認する。それから、キッと目つきを鋭くして大地は鳴海の方を振り向いた。
「藤原、なごに変なことしたら許さねぇからな」
大地は低い声でそう言うと、「じゃあな!」と吐き捨てるようにして、自転車のペダルを踏み込んだ。
「お前、次の大会、ぜってぇ出てこいよ!」
数メートル先で振り向いた大地が、片手をハンドルから離して鳴海を指差して言う。
「ごめんね、変な奴で」
「いや、全然大丈夫。……俺たちも行こっか?」
この前のカフェのときと同じ。「入ろうか」と言ったときと同じ、遠慮がちなこちらを窺うトーン。その言い方が好きだな、と和は思いながら、「うん」と頷いた。
「あ、出発前にひとつだけ」
一歩踏み出そうとしたとき、鳴海がそう言って和を引き止めた。
「今日は、何かおかしいなとか、負担に感じることがあったらすぐに言って」
笹原さんの気持ちが最優先だから、と鳴海が真剣な口調で言う。
「すぐに帰ることになっても俺は大丈夫だから。俺と一緒にいるときは、無理だけは絶対しないで」
「うん、ありがとう。約束する」
和が頷くと、鳴海は「じゃあ、出発」とその表情を和らげた。
鳴海の柔らかな表情を見て、和は気付く。そういえば今日は、鳴海に出会ったあとも手が震えていないことに。
夏の訪れを感じさせるような陽射しの中、涼やかな風が吹き抜けて和の髪を揺らした。