一週間だけの妻 〜冷酷御曹司と秘密の契約結婚〜
第1章「契約のはじまり」
取締役会の終わりを告げる電子音が、冬の夜景に沈む会議室へ乾いた余韻を落とした。
磨き上げられたガラス越しに、街の灯が宝石の粉のように瞬いている。冷たい光を背に、青年は無言で椅子にもたれた。
柊真——柊ホールディングスの若き後継者。
銀糸めいた髪は硬質なダウンライトを受けて淡く輝き、切れ長の黒い瞳は薄い刃のように細められている。端正すぎる顔は、温度を閉ざした彫像みたいだ。
向かいに座る私は、膝の上で両手を重ねていた。
黒に近い深い茶の髪を肩で結び、薄いベージュのワンピースに白いカーディガン。翡翠色の瞳は、緊張に耐えるようにまっすぐ机上の書類へ落としている。
「——条件は理解しているな」
低い声が、静謐を破った。
「はい。……わたしは一週間だけ、柊真さんの“妻”を務めます。公の場では、あなたの隣で笑うこと。勝手な行動はしないこと。契約終了後は互いに干渉しないこと」
「もうひとつ」
彼は指先で契約書の角を軽く叩く。
「俺の隣から、離れないこと。どんな噂が出ても。……できるか?」
胸の奥がきゅっと縮む。
噂。父が抱える資金繰りの穴、グループ再編に絡む買収の話——すべて、私の理解を越えたところで渦を巻いている。けれど、ここで躓けば父の会社は終わる。
「——はい」
答えると、彼は微かに口角を上げた。それは笑みというには冷たく、けれど皮肉だけとも違って、探るような表情だった。
タイミングを見計らったように、扉が開く。
父と、柊真の秘書である神城が入室した。神城は整えられた黒髪に縁の細い眼鏡、無表情に近い顔をしている。
テーブル中央へ差し出された契約書の紙面は、白く眩しい。
「彩音……」父の声は掠れていた。「すまない。おまえの人生を、巻き込んでしまって」
「大丈夫です。——一週間だけ、ですから」
言いながら指先は震える。ペン先が紙に触れるたび、小さな音が胸に刺さった。
署名を書き終え、日付に手を動かした瞬間、隣から影が差す。
「手が冷えている」
柊真の言葉は平板だった。だが次の瞬間、彼の指が私の手首へそっと触れた。
驚きに目を上げると、黒い瞳がまっすぐ落ちてくる。息が詰まった。
「……契約が乱れると困る。震えが止まるまで待て」
理由づけは冷たいのに、体温だけが現実だ。
私は深呼吸をして、再びペンを取った。——書き終えたサインの上でインクが乾いていく。
「契約成立です」神城が静かに告げる。
父が深く頭を下げるのを、視界の端で見た。私は笑顔を作ろうとして、うまく頬が動かないことに気づく。
「今日から君は俺の妻だ。期限は七日間」
柊真の声は相変わらず乾いていた。
「人前では、完璧を演じてもらう。笑え。背筋を伸ばせ。——俺の隣で、似合うように」
「……似合う、ように」
反複すると、彼は短く「そうだ」とだけ答える。
似合うかどうかなんて、私にはわからない。けれど、私を見下ろす瞳が、瞬き一つ分だけ柔らいだ気がした。
会議室を出るとき、父が小声で囁いた。
「彩音、無理はするな。何かあれば——」
「一週間だけですもの。大丈夫」
私は笑ってみせる。
本当は、足元が少しふらついていた。エレベーターホールの鏡に映る自分は、いつもより少しだけ大人びて見える。
夜のホテルロビーは、静かな香水の気配に満ちていた。シャンデリアが粉雪のように輝き、深紅の絨毯が私の足取りを吸い込む。
チェックインの手続きを済ませると、神城がカードキーを手渡した。
「スイートは最上階です。明朝、七時にお迎えにあがります」
後ろから近づいてくる気配。
振り返ると、黒のコートを肩にかけた柊真が立っていた。コートの襟元から覗く白いシャツのラインまで、寸分の狂いもなく美しい。
「行くぞ」
短い言葉に合わせ、私は一歩、彼の隣へ並ぶ。
“離れるな”という条件が、急に現実感を帯びる。——たぶん、これから先の七日間ずっと。
最上階へ向かうエレベーターの壁面は、漆黒の鏡だった。
並んだ二人の姿が、冷たい光に縁どられて息をひそめる。私は自分の横顔が、少し幼いことを知っている。柊真は、鏡の中でも無表情の王だった。
「彩音」
名前を呼ばれて、驚いて顔を向けた。
「はい」
「今夜は疲れただろう。寝ろ。必要なものは神城に伝えろ」
「……ありがとうございます」
「礼は要らない。契約だからな」
言葉は冷たい。なのに、エレベーターを降りるとき、彼は当然のように私の背に手を添えた。
触れた場所が、遅れてじんわりと熱くなる。
スイートの扉が開くと、白とグレーを基調にした洗練の空間が広がっていた。
壁一面の窓、その向こうには、凍てつく星空みたいな街の灯。弧を描くソファ、クリスタルの花器、薄い羊毛のラグ。——物音ひとつ立てるのが憚られるほど、完璧に整えられている。
「ここが、わたしたちの……」
「一週間の住処だ」
柊真はコートを脱ぎ、ソファの背へ無造作にかけた。動きに無駄がない。袖口から覗く手首は骨ばっていて、鋭いのに、どこか脆さを孕んでいる。
「誤解するな。——これは“取引”だ」
その宣告が、ゆるぎない境界線を引いた。
私はうなずいてみせるしかない。境界線のこちら側で、息を整える。
ガラスに映る街の灯が、揺れて滲んだ。
それが夜風のせいなのか、私の目のせいなのかは、まだわからない。
< 1 / 23 >