一週間だけの妻 〜冷酷御曹司と秘密の契約結婚〜
 朝は、驚くほど静かだった。厚手のレース越しに光がほどけ、薄藍のカバーに牛乳を垂らしたみたいな白が広がる。カモミールの香りは、夜の名残だけをやさしく置いていった。

 ノックが二度。扉を開けると、柊真が立っていた。ダークグレーのスーツに、薄いスチールブルーのタイ。まるで朝の空をまとうみたいに、冷ややかで整っている。

「——時間だ。朝食のあと、出る」

「はい」

 頷くと、彼は私の手首に目を落とした。昨夜渡されたチャームが、照明の欠片を拾って小さく瞬く。

「似合う」

 短いひと言なのに、胸の奥で鳴る音はやけに大きい。

「ありがとうございます」

「礼は——」

「契約、ですよね」

「……そうだ」

 ほんの一拍、彼のまぶたが静かに伏せられた。階下のダイニングは温かなパンの香りに満ち、銀のポットから注がれる紅茶が、朝の気配に細い線を描く。

「食べられるか?」

「緊張で、半分くらいは」

「なら半分食べろ」

「論理的ですね」

「効率的と言え」

 口角が、昨日よりほんの少しだけ、やわらいで見えた。

     

 車内では、前席の神城さんが予定を確認する。

「本日は九時より慈善財団『エーデル基金』のレセプション。会場はオリエントホテル大広間です。正午から取締役二名と会食、その後移動して——」

「夜は俺の母だ」

 合図のように、彼がちらりと横目で私を見る。

「笑え」

「練習、ですよね」

「今」

「い、今ですか?」

「今できないことは、会場でもできない」

 心拍が一気に跳ねる。窓に映る自分に向かって、息を吸い、笑ってみせる。ぎこちない。自覚した瞬間、視線を逃がしかけたとき——

「——目だけ笑えてない」

「厳しいご指摘をありがとうございます」

「眉間を緩めろ。目の下を、少しだけ——そう。唇はそれ以上上げるな」

「先生みたい」

「生徒が頑張れ」

 ふっと、視線が合う。驚くほど近い距離。彼の睫毛が、朝の光を一本ずつ拾っていた。胸の奥で、小さな鐘が鳴る。

「……今の、悪くない」

「合格ですか?」

「仮合格だ」

 車がホテルの車寄せに滑り込む。ドアが開くと、金糸のような朝の光と、花の匂いが押し寄せた。

     

 大広間は、白いリネンとガラスの海だった。高い天井から下がるシャンデリアが、昼なのに星座のように瞬く。壁際には青紫のアネモネと白い牡丹のアレンジ。私の指先はチャームに触れ、現実を確かめるみたいに輪をなぞる。

「神谷ホールディングスの——」

「柊真です」

 名刺が交わされ、視線の矢印が私に移る。彼の指が自然に私の背へ添えられた。触れてはいないのに、そこに確かな温度がある。

「妻の——」

 一瞬、彼の言葉が止まった。呼吸ほどの間。次の瞬間、滑らかに言い換えられる。

「——パートナーだ」

 胸が、熱くなる。契約の二文字は飲み込まれ、私に向けられた微笑みが、さきほど車内で練習した形にとても近い。私も、返す。眉間を緩めて、目の下をほんの少し——。

「素敵な笑顔ですわね」

 ふと、背後から柔らかな声。振り向くと、薄藤色のドレスをまとう女性が立っていた。財団の理事長の娘、白瀬 麗香。社交ページで見た顔だ。

「白瀬です。以前、柊真さんにはパネルの件で大変お世話になって」

「白瀬さん。ご無沙汰している」

 麗香は、柊真に一歩近づき、視線を私へ滑らせる。笑顔は美しいのに、温度がどこか不思議と一定だ。

「パートナー……。素敵な言葉。何より対等で、響きが軽やか」

「言葉選びは、状況に合わせるものだ」

「ふふ。状況は、変わるものでもあるわ」

 柔らかい会話なのに、薄い刃のきらめきが潜む。私は笑顔を保ちながら、手にしたグラスの水面に小さな輪を見た。緊張が指先へ下りてくる——その時。

「——彼女は、今朝、俺より早く起きて、笑う練習をしてきた」

 不意に、柊真が言う。麗香の眉が、ほんのわずかに揺れた。

「すごい頑張り屋で、少し不器用だ。だから俺は、彼女が話しやすいように場を整える。君は、いつも通りで構わない」

「まあ」

 麗香は軽く肩をすくめ、グラスを上げる。

「素敵。では新しいご縁に——乾杯」

 去っていく背を見送ると、息が一つ抜けた。柊真が、私の耳に近いところで囁く。

「——今の笑顔、合格だ」

「ほんとですか」

「満点に近い」

「“近い”んですね」

「満点は夜、母の前で取れ」

「最高難易度……」

「攻略するんだろう?」

「ゲームみたいに言わないでください」

 けれど声は、笑っていた。

     

 会食は、緊張の糸とフォークの音が並走した。取締役のひとり、河村氏が私に問いかける。

「奥様は、どんなお菓子がお好きですかな?」

「甘すぎないもの……たとえば、レモンのタルトとか」

「レモンの酸味は後を引きますな。わが社の新しいカフェラインにも——」

 話題はスムーズに広がっていく。驚いた。練習の笑顔ひとつで、会話の扉がこんなに軽く開くなんて。隣で柊真が、ほとんど気づかれないほど小さく頷いた。その仕草が、テーブルの下でそっと手を支えられたみたいに心強い。

「食後にカモミールを頼んだ。飲め」

「覚えていてくださったんですね」

「昨夜の助言を、無駄にしない主義だ」

「効率的」

「ようやく正しい語彙を使ったな」

     

 夕方、街は金色に傾き、車窓には低い影が布のように流れた。目的地は、老舗の洋館を思わせる一角。エントランスには小さな噴水、香るのはオリーブの葉と、焼きたてのパウンドケーキ。

「母は、早合点しない人だが、視線が鋭い」

「つまり?」

「嘘は通らない」

「わかりました。——本当のことしか言わない、ですね」

 インターフォンの電子音。開いた扉の向こうに、端正な黒のドレスと、真珠の一連。柊真の母・鷹野院(たかのいん)美沙子——静かな威厳が廊下の空気を整えた。

「いらっしゃい。柊真、そして——」

 彼女の目が、真っ直ぐに私を見た。見透かすのではなく、測るのでもない。波形を確かめるように。

「あなたが、彼女ね」

「初めまして。……不慣れなことばかりですが、失礼のないように努めます」

「その言い方、悪くないわ」

 リビングに招かれ、テーブルに置かれたのは、薄いレモンアイシングのかかったパウンドケーキと、カモミールティー。心臓が、小さく跳ねた。

「お母さま、これ——」

「あなたのお父様から、昔、柊真がひどく眠れなかった頃のことを聞いたの。カモミールはよく効くのよ。……ねえ、あなた」

「……ああ」

 柊真は、視線を落として小さく頷いた。彼の手が、テーブルの下で拳になりかけ、すぐほどける。私はそれを見てしまい、言葉を探した。

「昨夜、教えていただきました。温かいものを飲めって。……だから、今日も“練習”しています」

「練習?」

「笑う練習です」

 言うと、美沙子さんの目尻がそっと和らいだ。

「見せて」

 私は、息を吸い、車内で覚えた通りに——眉間を緩め、目の下を少しだけ。唇は、上げすぎない。胸の奥に、カモミールの湯気を想像する。

「……いいわ」

 静かな拍手が、室内の空気を優しくたたいた。

「その笑顔を、私の前で引き出したのは、いつぶりかしらね」

「——母さん」

「あなた、表情筋がもったいないの。氷像みたいにしておくにはね」

 美沙子さんの冗談に、私は思わず笑い、そして気付く。向かいの柊真が、確かに笑っている。訓練で作った線ではない。頬の奥から、光がひと匙すくい上げられたような——そんな笑顔。

「……今の、満点だ」

 彼が言ったのか、私が心の中で言ったのか、判別がつかない。けれど、テーブルの上のチャームが、雪の結晶の形のまま、小さく震えた気がした。

「一週間だけ、というのはあなたたちの都合?」

 不意に、美沙子さんが問う。空気が、薄く張りつめる。

「ええ。——事情があって」

「事情は、だいたい事情ね」

 あっさり言って、彼女はケーキを切り分ける。レモンの香りがふわりと立つ。

「ただ、期限は紙の上の線であって、心は直線で動かない。覚えておくといいわ」

 胸に、静かな波紋が広がった。答えられずにいると、彼女は私に皿を差し出す。

「まずは、食べなさい。甘いものは、余計な言い訳を溶かすこともある」

「……いただきます」

 フォークの先でアイシングを割ると、薄いひかりが崩れる。ひとくち。レモンの酸と、バターの温度。そして、どこかに、昨夜のカモミールが重なった。

 視線を上げると、柊真が、目を細めてこちらを見ている。

「悪くない顔をしてる」

「あなたも」

「俺はいつも、こうだ」

「氷像じゃないですよ。——今は、ちゃんと人の形です」

 美沙子さんの笑い声が、吊るされたガラスを小さく震わせた。

「“練習”は、思いがけない効果を連れてくるものよ」

 その言葉が、夜のはじまりの鐘のように聞こえた。

 窓の外には、早くも街の灯りが一粒ずつ灯っている。星座の地図の中で、一本の細い道が、さっきよりはっきり見えた気がした。

 一週間という名の道。終わりは決まっている。——けれど、人の心は、予定表のマス目よりも、ずっと複雑で、やわらかい。

 私はゆっくりと息を吸い、笑った。練習ではなく、今の私のための、笑顔で。
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