一週間だけの妻 〜冷酷御曹司と秘密の契約結婚〜
 慈善財団のレセプションは、白薔薇のアーチが迎える明るい会場だった。
 シャンデリアに反射する光が、昼の空に星座を描く。
 私は約束どおり笑い、彼は約束どおり隣から離れなかった。

「柊様、奥様、とてもお似合いですわ」
「ありがとう」彼は礼儀正しく受け、視線だけで私へ合図する。
 ——大丈夫だ、という合図。
 私は小さくうなずく。

 数人の老婦人と挨拶を交わし、財団の活動について短く言葉を添えた。
 父の会社で広報をかじっていてよかった、と初めて思う。
 それでも時折、私の耳の裏を冷たい汗がつたった。

「少し休むか」
 彼は人の流れを読み、会場の端へ導いた。背中へ添えられた手が、さりげなく庇う。

「平気です」
「顔が白い」

「もともと色が白いんです」

「——知っている」

 不意に、喉の奥に熱がこみ上げた。
 知らないはずの人に、知っていると言われる不思議。
 私のことを何で知っているの、と問えば、きっと彼は「神城の調査だ」と言う。
 それでもいい。今は、その言葉だけが欲しい。

 会食は、重厚な個室で行われた。
 落ち着いた木目、翡翠の皿縁、静かなサービス。
 取締役たちに向けて、彼は端的に話す。私は笑顔と相槌で支える。
 役目を果たすたび、彼の視線が短く私を撫でた。——よくやった、と言うみたいに。

 夕刻、母上のサロンを訪ねた。
 淡いラベンダー色のワンピースの、品の良い女性。
 柊真の母——柊礼子。目元の優しさは、彼のものとは別の柔らかさで、けれどよく似ていた。

「ようこそ。彩音さん。あなたのことは、前から聞いているわ」
 私は姿勢を正した。「初めまして。彩音と申します。短い間ですが、どうぞよろしくお願いいたします」

「短い?」
 礼子は意味ありげに笑った。「女の直感では、短くならない気がするけれど」

「母さん」
 柊真が咎めるように名を呼ぶ。礼子は肩を竦め、ティーカップを私へ差し出した。

「息子は不器用です。冷たく見えるときほど、内側で忙しく騒いでいますから、驚かないでね」

 ——不器用。
 言葉が胸の中で小さく反響する。
 帰り際、礼子は私の手を軽く握った。
「いい手。温かい。……大切になさって」

 車に戻るまで、私は何も言えなかった。
 座席に身を沈めてから、やっと小さく息を吐く。

「母の言葉は、気にするな」
 彼は窓の外を見たまま言った。「余計なことを言う」

「いいえ」
 私は首を振る。「救われました。……わたしも不器用なので」

 彼の横顔に、かすかな笑いが走った。
「自覚があるなら、改善の余地がある」

「努力してみます」

「なら——褒美をやろう」

 彼はそう言って、私の手の甲に視線を落とした。
 そして、触れもしない距離で、口元だけを近づける。
 ——キスの形をした、影。

 何も触れていないのに、触れられたみたいに手の甲が熱くなる。
 息が詰まって、瞳を閉じた。
「……今のは、練習のご褒美か、契約の特典か、どちらですか」

「どちらでもない」
 即答。
「俺の気分だ」

「ずるい」

「知っている」

 夜、ホテルに戻ると、私は先にエレベーターを降りた。
 靴の踵がラグに沈み、わずかにつまずく。——瞬間、背から腕が回った。
 落ちる前に、彼が支える。

「離れるなと言った」
 耳の後ろに低い声。「怪我をされると、俺が困る」

「……ごめんなさい」

 身体を離すと、腕の場所に冷たい空気が入ってきた。
 彼は何事もなかったように前を歩き、スイートの扉を開ける。
「シャワーを浴びろ。温かいものを用意する」

「自分でできます」

「俺がやる」

 反論の隙もない。
 やがて湯気の向こうから湯気のマグが渡される。
「蜂蜜を入れた。飲め」

「……ありがとうございます」

「礼は要らない。——契約だ」

 同じ言葉を三度目に聞く夜、私は初めて、そこに隠れた意味を読み取った気がした。
 “礼は要らない”。つまり、返さなくていい。見返りを求めていない。
 それでも、何か返したいと思う。契約の枠の中で許される、ささやかな何かを。

「明日もがんばります」
 マグを両手で包みながら言うと、彼はソファの背へ片腕をかけ、少しだけ目を細めた。

「——そうしろ。俺の隣で」

 その“俺の隣で”が、どうしようもなく甘い。
 私はうなずき、ゲストルームの扉へ向かった。
 寝る前に振り返ると、彼はまだソファにいた。薄くひじをつき、私のいる方を見ている。
 目が合うと、彼は何も言わず、ゆっくりと瞬きをした。
 それが「おやすみ」の合図だと、なぜだかすぐにわかった。

 灯りを落とす。
 暗闇に、心臓の音が静かに響いた。
 ——一週間だけ。
 そう言い聞かせながらも、胸の奥では小さな期待が芽吹いてしまっている。
 明日また、彼の隣で笑えるように。

 眠りは、今夜は少しだけやさしかった。
 遠くで街の灯が瞬き、冬の空は深い息を吐く。
 私は知らない。明日の舞踏会で、初めての嫉妬がふたりを試すことを。
まだ知らない。
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