一週間だけの妻 〜冷酷御曹司と秘密の契約結婚〜
第2章「初夜の距離」
目覚ましより早く目が覚めた。
薄いカーテンの向こうで、夜明け前の空が群青から淡い銀へと滲んでいく。
シーツの肌触りはなめらかで、眠気は残っているのに、神経だけが冴えていた。
ノック音に肩が跳ねる。
「おはようございます。神城です」
扉の向こうの声は時計の針みたいに正確だ。私は慌てて支度を整え、扉を開ける。
「おはようございます」
「朝食はテラスで。社長——いえ、柊様はすでにお待ちです」
テラスに出ると、朝の風が頬を撫でた。
冬の光は冷たいのに、どこか甘い。
ガラスのテーブルには、白いクロスと磨かれたカトラリー。湯気の立つコーヒーと、彩りの優しいサラダ、バターの香りのするクロワッサン。
柊真は、灰色のニットに黒のスラックス。
仕事のときの完璧なスーツ姿とは違う、くつろいだ空気をまとっている。銀の髪が朝日を受けて、柔らかく見えた。
「座れ」
「失礼します」
椅子に腰かけると、彼は何も言わず、私のカップへコーヒーを注いだ。
香りがふわりと広がる。
「砂糖は?」
「少しだけ」
用意されたシュガーポットから、彼は小さじ一杯をすくって落とした。
見慣れない所作。御曹司が、誰かのカップへ砂糖を落とす——それだけで心臓が忙しい。
「昨日、眠れたか」
「少しだけ。……カモミール、ありがとうございました」
「神城が置いたと聞いた」
またそれだ。素っ気なく、けれど完全に否定もしない。
「——だが、勧めたのは俺だ」
俯いた視界に、クロワッサンの層がきれいに重なっているのが見えた。
「おいしいです」
「食べろ。今日は長い」
朝食の間、私たちは仕事の話をした。
慈善財団のレセプション、会食の席順、母上の好む花の色。
必要な言葉を、必要なだけ。けれど時折、彼が私の口元にパンくずがついていないか視線で確かめるのを感じる。
そのたび、胸の内側がくすぐったい。
「彩音」
「はい」
「立ってみろ」
言われるまま立つと、彼は距離を詰め、私の肩へそっと触れた。
ジャケットの襟を整える、ほんの一瞬の接触。
「似合っている。——笑え」
私は練習どおり、口角を上げる。
「……どうでしょう」
「昨日よりいい」
言いながら、彼自身の唇も少しだけ動いた。その笑みは、朝の光と同じ温度をしている。
準備を終え、ロビーに降りると、フラッシュの気配が一瞬だけよぎった。
カメラ。どこかで誰かが、私たちを測っている。
私は彼に寄り添う。条件どおり、離れない。彼の腕が、自然な仕草で私の腰に回った。
「大丈夫だ」
耳元で低く囁く。「俺がいる」
その一言が、コートよりも温かい。
車は静かに走り出した。
窓の外で、街が目覚めていく。信号の青が、朝の白に溶ける。
私はちらりと彼の横顔を盗み見る。長い睫毛、真っ直ぐな鼻筋。
こんな距離で見ていい顔ではない。——視線が吸い寄せられる。
「顔に何かついているか」
「い、いえっ」
「なら、見るな。……事故る」
「運転手さんが運転してます」
「そういうことではない」
ふいに、彼が携帯を耳に当てる。
「……ああ、俺だ。例の件は予定どおり進めろ。——彼女のことは近づけるな」
短く言い切って通話を切ると、車内に静寂が戻った。
彼女。
誰のことだろう。喉の奥がきゅっと締まる。
質問してはいけない。契約の私に、尋ねる資格はない——そう言い聞かせる。
代わりに、私は窓の外へ目を戻した。
朝の光は、まだ優しい。優しいのに、胸の中だけがざわざわと波立っていた。
薄いカーテンの向こうで、夜明け前の空が群青から淡い銀へと滲んでいく。
シーツの肌触りはなめらかで、眠気は残っているのに、神経だけが冴えていた。
ノック音に肩が跳ねる。
「おはようございます。神城です」
扉の向こうの声は時計の針みたいに正確だ。私は慌てて支度を整え、扉を開ける。
「おはようございます」
「朝食はテラスで。社長——いえ、柊様はすでにお待ちです」
テラスに出ると、朝の風が頬を撫でた。
冬の光は冷たいのに、どこか甘い。
ガラスのテーブルには、白いクロスと磨かれたカトラリー。湯気の立つコーヒーと、彩りの優しいサラダ、バターの香りのするクロワッサン。
柊真は、灰色のニットに黒のスラックス。
仕事のときの完璧なスーツ姿とは違う、くつろいだ空気をまとっている。銀の髪が朝日を受けて、柔らかく見えた。
「座れ」
「失礼します」
椅子に腰かけると、彼は何も言わず、私のカップへコーヒーを注いだ。
香りがふわりと広がる。
「砂糖は?」
「少しだけ」
用意されたシュガーポットから、彼は小さじ一杯をすくって落とした。
見慣れない所作。御曹司が、誰かのカップへ砂糖を落とす——それだけで心臓が忙しい。
「昨日、眠れたか」
「少しだけ。……カモミール、ありがとうございました」
「神城が置いたと聞いた」
またそれだ。素っ気なく、けれど完全に否定もしない。
「——だが、勧めたのは俺だ」
俯いた視界に、クロワッサンの層がきれいに重なっているのが見えた。
「おいしいです」
「食べろ。今日は長い」
朝食の間、私たちは仕事の話をした。
慈善財団のレセプション、会食の席順、母上の好む花の色。
必要な言葉を、必要なだけ。けれど時折、彼が私の口元にパンくずがついていないか視線で確かめるのを感じる。
そのたび、胸の内側がくすぐったい。
「彩音」
「はい」
「立ってみろ」
言われるまま立つと、彼は距離を詰め、私の肩へそっと触れた。
ジャケットの襟を整える、ほんの一瞬の接触。
「似合っている。——笑え」
私は練習どおり、口角を上げる。
「……どうでしょう」
「昨日よりいい」
言いながら、彼自身の唇も少しだけ動いた。その笑みは、朝の光と同じ温度をしている。
準備を終え、ロビーに降りると、フラッシュの気配が一瞬だけよぎった。
カメラ。どこかで誰かが、私たちを測っている。
私は彼に寄り添う。条件どおり、離れない。彼の腕が、自然な仕草で私の腰に回った。
「大丈夫だ」
耳元で低く囁く。「俺がいる」
その一言が、コートよりも温かい。
車は静かに走り出した。
窓の外で、街が目覚めていく。信号の青が、朝の白に溶ける。
私はちらりと彼の横顔を盗み見る。長い睫毛、真っ直ぐな鼻筋。
こんな距離で見ていい顔ではない。——視線が吸い寄せられる。
「顔に何かついているか」
「い、いえっ」
「なら、見るな。……事故る」
「運転手さんが運転してます」
「そういうことではない」
ふいに、彼が携帯を耳に当てる。
「……ああ、俺だ。例の件は予定どおり進めろ。——彼女のことは近づけるな」
短く言い切って通話を切ると、車内に静寂が戻った。
彼女。
誰のことだろう。喉の奥がきゅっと締まる。
質問してはいけない。契約の私に、尋ねる資格はない——そう言い聞かせる。
代わりに、私は窓の外へ目を戻した。
朝の光は、まだ優しい。優しいのに、胸の中だけがざわざわと波立っていた。