愛する祖国の皆様、私のことは忘れてくださって結構です~捨てられた公爵令嬢の手記から始まる、残された者たちの末路~

16.ラセター侯爵

「陛下、陛下。次の公務のお時間が迫っております」
「ああ、シズか」

 会議室の椅子に深く腰掛け、天井を仰いでいたベルモンドは答える。
 どうやら浅く眠ってしまったらしい。

(最近、眠れん……)

 シャンテからクロエの近況を聞いて以来、心が落ち着くことがなかった。
 手記も読まなければと思いつつ、進まない。

 クロエの字を見ると胃が掴まれてどうにもならなくなるのだ。
 何度か目を瞬かせてベルモンドは呼びかけてきたシズへ向き直る。

「バネッサからサファイアの指輪は受け取れたか?」
「はい――こちらに」

 シズが小箱を取り出し、開けた。

 そこには先日見たサファイアの指輪がしっかりと収められている。
 ベルモンドが箱から指輪を手に取ってしげしげと眺めた。

「確かに。抵抗されなかったか?」
「いいえ、時間通りに王妃様から受領することができました」
「ほう、すんなりと行ったのか」

 てっきりわがままを言うかと思いきや、素直な対応であった。
 さすがにバネッサも危機感を持ち始めたのだろうか。

「ええ――しかし、私の印象ですが……」

 口ごもるシズにベルモンドが先を促す。

「構わん。バネッサがどうした?」
「ひどく落ち着きがないように見えました。指輪の返還に何も言わなかったのも、他に重要なことがあるからのような」
「先日の夜会の件を気にしているのか?」

 今、バネッサが気にかけるようなことはあの夜会の件だろうか。
 とはいえ、もう処分は下った。

 バネッサの望み通りではなかっただろうが、もうあの件はどうにもできない。

「申し訳ありません、私にそこまでは」
「ふむ、同盟の件も進めなくてはな。それも気にしているのかもしれん」

 シズが押し黙る。彼女はベルモンドから見ても、極めて優秀な人間だ。

 しかし自分の意に沿わないことについてまで、上の人間に迎合しない。
 これまで疎ましく思っていたが、クロエ派の人間がいなくなった今では貴重な資質であった。

「……お前は反対か」
「私は財務官です。外交政策の是非を申し上げる立場にありません」

 硬質な答えが如実にシズの考えを示している。
 ベルモンドは苦笑しながら手を振った。

「わかった。指輪はしかるべきルートでガノーラ辺境伯に返却だ」
「承知いたしました」

 シズが退席した後、ベルモンドは少数の護衛を引き連れて王宮を出た。

 目的地はラセター侯爵の邸宅。
 クロエの手記に示された貴族……ようやく彼と会見できる。

 邸宅は王宮からほど近い、小さな丘の上にあった。

「会見までお時間を頂戴し、誠に申し訳ございません」
「いや、こうして会えて何よりだ」

 ラセター侯爵は老いた紳士だった。年齢は七十半ばのはず。
 しかしすらっと伸びた背筋と肩幅は年齢を感じさせない。

 灰色となった髪はまだ豊かに逆立ち、同じく灰色の瞳の眼光は鋭かった。
 かつては軍務省の大臣であったらしいが、ベルモンドの生まれる前に役職からは離れている。

 その関係で独自の派閥を形成して、政局には中立であった。

「どうぞ、貴賓室にご案内いたします」
「すまんな」

 ラセターの邸宅は質素であり、内装も質素なものである。

 財政難に見舞われているベルモンドは逆に好感を持てた。
 貴賓室も年代物の家具程度で豪奢なものはひとつもない。

「陛下の御目を喜ばせるようなものがなく、恥ずかしい限りでございます」
「まさか、むしろ慎ましくて何よりだ。私もかくありたいものよ」

 これは本心であった。今のベルモンドは喧噪よりも安定を欲していた。
 小高い丘の邸宅から馴染みの家具に囲まれて安寧に暮らせれば、どんなに良いだろうか。

「陛下にそのように仰っていただき、誠にありがたい思いでございます。最近の王宮の様子はいかがでしょうか、最近は登城もままならず……」
「また風の病が流行っている」

 エスカリーナは山あいの土地柄だからか、疫病がたびたび蔓延する。
 貴族の間でもついこの間、数人が療養生活に入ったばかりであった。

「気を引き締めねばならん」
「……ふむ、まだ業病は続いておりますか」
「この土地では致し方あるまい」

 エスカリーナではこの蔓延する病を、風の病と名付けていた。

 主な症状は頭痛や吐き気、胸焼けなど。
 重症化することは少ないが、解決策もない。

 せいぜい蔓延した土地を絞り込み、立ち入りを控えてもらう程度だ。
 話題が一段落したところで、ベルモンドはやや迷ったが、本題に入ることにした。

「貴公とは王国の昔話など語り合うことはたくさんあるのだが……。今、エスカリーナには難題が山積している。さる筋から貴公には知恵があると聞いた。出来れば貴公の知恵を借りられないか?」
「ほう、この老いぼれの知恵を借りたいとは……懐かしい響きですな」
「懐かしいとは?」
「あのクロエ様もよく私に意見を求めてくださった。まぁ、もう何年も前の話ですが」
「……!」

 あのクロエも、と聞いてベルモンドの胸が高鳴った。
 そんな話は聞いたことがなかったが――だが、手記にわざわざ名前を書くぐらいだ。彼女自身が頼りにしていてもおかしくはない。

「クロエ様には全てを授けました。あの子は本当に賢く、理想的な王妃になってくださると期待していたのに……」

 ラセターからの非難を感じ取り、ベルモンドの胸が痛む。
 だが悔やんでも前には進めない。今、必要なのは解決策だ。知恵だ。

 なんとか協力してくれるように言おうと思った矢先、ラセターが口を開いた。

「陛下がここに来たのもクロエ様の言伝でしょう? 書か何かで、私に相談するようにとありましたか」
「なっ……」
「私は軍務省で、様々な諜報に携わっておりました。そしてクロエ様に協力して、貴族の裏を色々と教授したのです。秘められた血統、届けるべき秘密――どういった方法を使い、探ればよいのか」

 ベルモンドは衝撃を受けていた。
 ラセターの言うことが本当なら、あの手記の幾分かは彼の協力によるものか。

「どうやら図星のようですな」

 ベルモンドは立ち上がり、ラセターに向けて頭を下げた。

 もはやなりふり構っている場合ではない。
 今、必要なのは彼のような智者だ。一を聞いて十を知る貴族の側近がどうしても必要だった。

「……頼む。改めて貴公に協力をお願いしたい。出来る限りの望みも叶えよう」
「この老いぼれの願いですか。ああ……それが叶うなら、私もどんなに良かったか」

 ラセターがうめき、ベルモンドを見据える。

「この老骨の願いはひとつだけ。あのクロエ様がこのエスカリーナを率いるのを、見たかった。あのクロエ様の妹などではなく……」
「バネッサについては――」
「彼女がいる限り、国内がまとまることはありますまい」
「わかっている! 彼女のことはなんとかすると約束しよう!」

 ベルモンドはとっさに懇願した。

 具体的にどうするかまでは何も考えていなかったが、とにかくすがるしかなかった。
 だが、ラセターの表情は曇ったまま変わらない。

「私に協力はできないと……? クロエへの償いもしよう!」
「もう遅いのです、陛下」
「どういう意味だ?」
「私は知っておるのです――この国の急所を。陛下は慎重に隠しておられるようだが、この事実が明らかになればエスカリーナは終わりでしょう」

 はっとしてベルモンドは一歩下がる。
 まさか、そんなはずはない。あの事実は極少数しか知らないはずだ。

 だがラセターの瞳は虚勢ではないと語っていた。

「貴公は何を知っている?」
「それは――」
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