愛する祖国の皆様、私のことは忘れてくださって結構です~捨てられた公爵令嬢の手記から始まる、残された者たちの末路~

22.黒竜の皇子

 ベルモンドは鉄道を乗り継ぎ、王都からマズロー山へ移動していた。

「ふぅ……」

 結婚してから王都を離れる際には必ずバネッサがいた。

 バネッサとここまで離れるとは……そして、それがこれほど解放感があるとは思わなかった。
 クロエの手記を開き、ベルモンドは深く考える。手記はあらかた読んだが、どれもが珠玉といえる情報ばかりだった。

(これらの大元もラスターか。彼も取り立てねばな……)

 リンゼットの危機が片付いたら、国の体制を大きく見直そう。
 その際、クロエはもとよりラセターにも大役を担ってもらうべきだろう。

「しかし、わからんのは……父上はなぜ、この情報を活用しなかったんだ?」

 手記は亡きトルカーナ四世の遺品だ。
 これほど有用な手記だが、どのネタも使われていたというようなことはなかった。

(使われた側も同じネタで二回も動かされたりはしないはず。つまりこの手記の情報は全部、使っていない……)

 不思議なことだが、首をひねっても答えは出てこない。

 そうしているうちに鉄道から馬車へ移って、マズロー山へとベルモンドは到着する。

 マズロー山は赤土に覆われた、小高い山だ。
 木々はほとんどなく、赤土と岩石だけの不毛な山である。

 それゆえ見晴らしがよく、点在する丘と組み合わせて堅固な防衛網を構築できた。

「……ここに来るのも久し振りだな」

 前に来たのはもう五年は前になるか。クロエと一緒に巡行した時以来だ。

 あの時はちょうど、ベルモンドは決まり切った未来に退屈していた。
 その行く末に、またここを訪れるとは皮肉なものだ。

 ベルモンドはマズロー山の守備軍を見舞い、状況を確認する。現地の士官はよく堪えているが、兵卒は不安気だった。
 国内各地から充填した兵もいるのだが、数だけでは動揺を抑えがたい。

 標高六百メートルほどのマズロー山から、望遠鏡でリンゼットの軍容はよく見て取れた。
 守備軍のほんの数キロ先がリンゼット領であり、そこには数百の大砲と漆黒の軍服に身を包んだ兵が見下ろせる。

 そして軍内には春風にたなびくいくつもの黒竜の巨大なる軍旗が飾られていた。

「あの旗はリンゼット皇族の旗だったか」

 守備軍の将軍は威厳を持ちながらも、目の奥には怯えがあった。

「まさしく。率いているのは黒の鬼神とも呼ばれている、百戦百勝の皇太子ラーゼでしょう」

 リンゼット帝国は権力争いが激化していたが、この三年間で確固たる勝利を収めたのが皇太子のラーゼであった。

 とはいえラーゼは戦争以外で他国に出ることがほとんどなく、ベルモンドも直接会ったことはない。

(……だが皇太子か。話がまとまれば早いな)

 ベルモンドの思案を将軍が遮る。

「リンゼットの兵は五万に迫ろうとしております。いつ攻撃が開始されるか……」
「兵が増えたのだから、即座に崩されることはあるまい」
「地の利と兵数を鑑みれば確かにそうです。しかし実戦経験は雲泥の差。それに――王都の方々の中にはすでに逃げ支度をされている方もおられるとか」

 ベルモンドは将軍の肩を叩いた。震えを見せないよう細心の注意を払いながら。

「考えすぎだ。現に俺がここにいるではないか」

 将軍の言葉はどれも正しかったが、認めるわけにはいかない。

 話しながら、ベルモンドはひとつの考えに至らざるを得なかった。
 やはりマズロー山の守備軍は士気に問題を抱えている。

 いざ戦争となれば、長持ちは望めない。
 翌日、ベルモンドは極小数の護衛とともにリンゼットの軍へと向かった。

(大丈夫だ、問題ない……)

 さすがに何の行動も起こしていないうちから、自分を害することはないだろう。
 その予想通り、ベルモンドはリンゼット軍の正面から入ることができた。

 居並ぶリンゼットの兵は闘志に満ち、行進する兵は精強だ。
 昨日見てきたエスカリーナの兵が、冷静に俯瞰して勝てるようには思えなかった。

「どうぞ、こちらへ」

 案内されたのは軍勢のなかでもっとも巨大なテントであった。
 華美なところはなく、リンゼットの質実剛健さがうかがえる。

 黒竜の旗がはためているので、ここが皇太子の執務室代わりなのだろう。
 中央の長机に流麗な黒髪の貴公子が筆を取り、長机に座っていた。

「……エスカリーナの国王よ、よく来た」

 年齢は二十五。にしては老成し、佇まいからしてカリスマ性を放っていた。

 美しく対照的な目鼻は貴族と一流の俳優と見間違うばかりだ。
 濃い紅色の瞳と唇はどこか血を連想させ、ベルモンドを射抜く。

(大国の皇子とは、このような人物か……)

 生まれながらに嫡子として、ベルモンドはエスカリーナ王国を背負う運命にあった。

 その彼の人生をしても、これほど威圧感のある王族は珍しい。
 気迫で負けるものかと思っても、足がすくみそうになる。

「ラーゼ・リンゼット殿下。まずは貴国の軍営に招き入れて頂いたこと、感謝申し上げる」
「挨拶はよい。何用で来た?」

 ラーゼが手を止め、ゆらりと立ち上がった。

 ベルモンドも相応の長身であるが、さらにラーゼのほうが長身である。
 さらに筋肉質な体格がベルモンドを圧倒していた。

(こ、この男は……っ)

 本来であれば、リンゼットはエスカリーナに迫った非難を受けるべきなのに。

 だが、ラーゼはあくまで自分上位を崩さない。
 そして国力差とラーゼ自身の才覚がそのような態度を可能にしていた。

 負けてなるものかとベルモンドが声を張る。

「前置きが不要とあれば、率直に。なにゆえ貴国はエスカリーナを脅かそうとするのか。貴国とは過去、衝突したこともあった。だが近年は穏やかな交流が続いていたのではなかったか?」
「脅かす? これがか」

 ラーゼはテントの内から自らの軍勢を見渡していた。

「我が国が本気であればすぐにでも戦端は開かれ、マズロー山は陥落している。我が国は単に、触発されたに過ぎん」
「それはどういう……?」
「エスカリーナはレイデフォンの属国になろうとしている。知らぬとは言わせぬぞ」

 ラーゼは鋭い眼でベルモンドを見据えた。

「それは誤解だ! 断じてそのようなことはない!」
「ほう……そうか?」
「当然だ! とんだ侮辱も甚だしい!」
「ということのようだが。君の意見を聞きたい」

 ラーゼがテントの奥に身を翻す。
 そこから出てきた影はベルモンドを驚愕させた。

 漆黒と赤のリンゼット風のドレスに身を包んで現れたのは、クロエであった。
 目の覚めるような赤と闇より深い黒色、ドレスの裾には金糸で黒竜の意匠が縫い込まれていた。三年前に別れてから、幾分か記憶は薄れている。

 それでもふわりと白銀に似た流麗な長髪と冴え渡る知性を宿した碧の瞳……儚さを帯びた美しい顔立ちを間違えるわけはなかった。

 だがそれよりも、なぜクロエのドレスの裾に黒竜の意匠が入っているのか。
 それではまるで――たまらなくなったベルモンドが元婚約者の名前を叫ぶ。

「クロエ!」
「痴れ者が。その名を貴様が口にするな」

 ベルモンドはラーゼから目にも止まらぬ速さで殴りつけられた。

「がはっ!」

 不意の一撃にベルモンドは床へと叩きつけられる。驚いたのはベルモンドの護衛だ。

「な、なにをする!」
「――俺を斬るか?」

 ベルモンドの護衛が剣の柄に手をかけるが……抜けなかった。

 ラーゼは帯剣こそしていなかったが、獰猛な獣のごとき圧を放っている。
 その気迫に武器を取ることができない。

「やめろ!」

 ベルモンドは護衛の抜剣を手で制した。
 頬は痛むが、ここで決裂して不利になるのはエスカリーナだ。

 それよりもベルモンドは目の前の光景に、説明が欲しかった。

「……これはどういうことですか?」
「殿下、まずはエスカリーナ王の手当てをなさるべきかと」

 ベルモンドの問いを無視してクロエが静かに諭す。
 クロエの瞳にはベルモンドは映っていない。ただ、クロエはラーゼだけを見ていた。

「君の願いなら叶えよう。エスカリーナ王を然るべき軍営に案内して差し上げろ」
「お待ちください! これは、これはどういうことなのですか!?」

 なおも食い下がるベルモンドにラーゼはゆっくりとクロエの側へ近寄る。
 身体が密着するほど近付いてもクロエは少しも身じろぎをしない。

 当然のこととしてクロエもラーゼを受け入れていた。

 そっとラーゼが獰猛さを消し去り、優しくクロエの左腕を取る。
 クロエの左手の薬指には遠目からでもわかるほど、白く輝くダイヤの指輪が嵌められていた。

「クロエ・ペドローサは俺の婚約者だ。近々俺はリンゼット帝国の皇帝になるが、クロエは帝国の皇后となるだろう」
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