愛する祖国の皆様、私のことは忘れてくださって結構です~捨てられた公爵令嬢の手記から始まる、残された者たちの末路~

23.紅の怪物

「なにが、一体……どうなっているんだ……?」

 混乱したままベルモンドはラーゼとクロエから引き離され、リンゼット軍内のテントへ運ばれた。

 それはラーゼのいたテントより見劣りはするものの、国外の人間を迎えるのには十分な豪華さである。
 テントの一番奥、国賓を迎えるための区画でベルモンドはベッドに横になっていた。

 そして護衛のひとりがベルモンドの頬に氷袋を当てながら声をかける。

「陛下、お身体は大丈夫ですか?」
「…………」
「陛下……?」
「うるさい! 殴られた程度だ、このくらいの痣で騒ぐな!」

 ベルモンドが首を振って護衛にわめくが、かえってそれが護衛を心配させた。

「マズロー山に戻られなくて宜しいので……?」
「馬鹿が! ここで帰って何になる!? 俺の身体が心配ならマズロー山から軍医を呼べ!」

 護衛は顔を見合わせ、激したベルモンドの指図通りにすることにした。
 痛む頬に激情の波が頭痛を引き起こす。

 殴られた衝撃よりもラーゼから告げられたクロエのことのほうが、万倍もベルモンドを揺さぶっていた。

「しばらくひとりにしろ!」

 護衛を部屋から追い出し、ベルモンドはベッドに身を預ける。

 なぜ、どうして。クロエがリンゼット帝国にいるとは聞いていたが……どうして皇太子の婚約者などになっているのか。

 婚約破棄してから三年間、ベルモンドはクロエのことを追っていなかったことを心の底から後悔した。
 バネッサの不興を買ってでも、クロエから目を離さないでいるべきだったのだ。

「どうする、どうすればいい……っ!」

 頭も胸も痛みながら、ベルモンドは敗者のごとく呟くしかなかった。

 このまま王都やマズロー山へ戻ることはできない。
 今、ここから離れればベルモンドは真の敗者だ。

 クロエがリンゼット帝国の皇后になるという話はまだほとんど流れていないだろう。
 もしこんな話が広まれば、エスカリーナはさらなる混乱の中に叩き落される。

「にしてもクロエは……なぜ?」

 あのクロエが黒の鬼神と恐れられるラーゼの婚約者に、どうしてなったのか。
 その答えも知りたいのに、わからない。

「……そうだ。クロエの意志のはずがない……」

 ベルモンドは揺れる精神の中で仮説を組み立てていた。

 クロエはエスカリーナを常に想ってきた。
 今もそのはずだ。そんなクロエがリンゼットになびき、ラーゼを愛するわけがない。

「あのラーゼが……そうだ、そうに決まっている!」

 考えられるのはただひとつ。あの横暴なラーゼに無理やり婚約者にさせられたのではないだろうか。

 そうだ、クロエがエスカリーナを捨ててリンゼットに尽くすわけがない。そんな理由もない。
 精神も肉体も引き裂かれそうな中で、ベルモンドは答えを導き出す。

「そうではなくては……クロエが本当にあのリンゼットの皇太子を愛してなど、もしそんな事態だったら……」

 ベルモンドは頭を抱え、唸った。
 クロエなしでどうやってエスカリーナを支えればいいのか。

 バネッサとともに国を盛り立てるなど、もう不可能だ。
 ここに来る前、あんな言葉を吐いてしまって。

 どの面を下げて妻に向き合えばいいというのか。

「……くそっ」

 ベルモンドは毒づくと目を閉じた。

 精神の限界が近い。
 リンゼットの軍中ではあったが、身体には極限まで疲労が蓄積している。

 不用心だろうが休むしかない……。
 目を閉じたベルモンドの意識は、ベッドへとすみやかに吸い込まれていった。

 そして数時間後。
 ベルモンドは女性のささやき声を聞いた。

「――陛下」

 その声には聞き覚えがある。

 今、自分をそう呼ぶ女性は誰か。
 ベルモンドは現実と夢の狭間で呼びかけに答えた。

「クロエ……?」
「……」

 答えはない。ベルモンドは目を擦りながら、身体を起こす。

「陛下……」

 ささやき声の主はここにいるはずのない妻――バネッサであった。
 バネッサが眉を寄せてベルモンドのそばにいたのだ。

「お前、なぜここに?!」
「……誰と私を間違えたの?」

 冷えた眼のバネッサにベルモンドは言い返す。

「先に俺の質問に答えろ! ここはリンゼットの軍中だぞ!」
「王都で一人待つなんて嫌なのよ。だからマズロー山まで来たの。そうしたら陛下が怪我されたとか……それで軍医とともに」

 バネッサは極めて冷静だった。
 いつもの激情振りはどこへやら――不信感を抱かざるを得ないほどに落ち着いている。

 だが、それよりも……ベルモンドは強烈な身体の熱を体内に感じていた。
 知らない熱ではない。

 三年前、バネッサと逢った時にも感じた強烈な、身体の芯を燃やす熱だった。

「な、なんだこれは?」
「軍医に言って、少し薬を処方してもらったわ。すぐ効くはずよ」

 では、その軍医はどこにいるのか。
 おかしい。かつてないほど心臓が早鐘を打ち、頭の奥から光と熱が襲ってくる。

「かっ、ぐっ……」
「陛下――」

 バネッサが艶を帯びた声で、ベルモンドの頬の痣に手を伸ばす。

「やめろ……っ!」

 今、バネッサに触れられたくはなかった。

 それなのにバネッサはベルモンドに迫ってくる。
 愛しの妻が怪物のように感じられ――ベルモンドは喉が強く痛み、咳き込んでしまう。

「がっ、ごほっ……! やめてくれ……っ!」

 バネッサの赤い髪がベルモンドの熱と溶け合い、不気味に迫る。
 怪物に食われる。襲われる。

 腕に力が入らず、ベルモンドは抵抗できない。
 バネッサがベルモンドを押し倒して、衣を脱ぐのが見えた。

「助けてくれ……!」

 声がかすれて音が出ない。
 ベルモンドの服がバネッサによって脱がされていく。

 服は尊厳だ。国王たる尊厳が剥ぎ取られる。赤髪の怪物によって。
 熱と苦痛、恥辱に焼かれながらベルモンドはなんとか声を絞り出した。

「クロエ、クロエ……っ」
「やっぱりあなたは、あの人を選ぶのね」
「……行かないでくれ――」
「馬鹿な人。選んだのはあなたでしょう?」
「違う! 俺は、俺は……」

 バネッサの肉体がベルモンドの上で躍動する。
 苦痛に焼かれながら、真紅の髪が舞う。

「あなたはいつも勝手よね……! 私はあの人のことを嫌いだったけれど、あなたと結婚しなくちゃいけなかったことには同情するわ」
「やめろ――クロエ……!」

 もがくように手を空中に差し出す。
 だが、その手はバネッサに制される。

 助けは来ない。王と王妃の睦言に誰が干渉できようか。
 そして数時間が経った。ベルモンドの熱は身体の中でうごめき、疲労と頭痛に苛まれる。

 服を着直したバネッサはベルモンドを見下げ果てていた。

「あなたの子を産んであげる。そして、あなたと私の子が王位を継ぐの。それだけ決まったら――あなたも好きにすればいいわ」
「うっ……」

 ベルモンドは惨めな自分を振り返らずにはいられなかった。
 ひどく自分が汚れた気がした。

 これは何の罰だろうか。やっとクロエと再会できたのに……彼女を裏切った気がした。
 その瞬間、ベルモンドの胸が張り裂けるように痛んだ。

 人生で感じたことのない激しい苦痛がベルモンドに襲いかかる。

(な、なんだ……これは)

 思考がまとまらないほどの痛み。
 バネッサはベッドから起きて、つまらなさそうにしている。

 マズい。この痛みは、命に関わる痛みだ。
 本当的な恐怖を感じてバネッサに手を伸ばす。

(医者を――)

「なに?」

 バネッサは事態を全く理解してなさそうだった。
 ベルモンドは必死に宙へ掴みかかろうとして、ベッドから転げ落ちる。

 無様に肩から落ちて、ようやくバネッサもベルモンドの異変に気が付いたようだった。

「……えっ? ウソ!?」

 なんとか胸の痛みを訴えようとするが、言葉にならない。
 締め付けられるような痛みを紛らわせるため、ベルモンドは胸をかき乱す。

 苦痛とともにベルモンドの視界が暗くなる。
 何が起こったのか。遠ざかる意識の中で、ベルモンドは思い出していた。

 これは父、トルカーナ四世の発作に似ている。
 ベルモンドの父もよく胸をかき乱し、ベッドから落ちていた。

 そして数日間寝ては少し覚醒するという療養生活を送っていたのだ。

 突然、ベルモンドは悟った。
 エスカリーナの王族は病弱で、寿命も短い。

 父も妹も……自分もそうだったのか?

(俺も同じ運命を辿るのか――)

 運命には逆らえない。運命によってベルモンドは王の子として生まれたのだから。

 そして王の子であるがゆえに、胸を貫く痛みに悶えて早世する。
 せめてクロエには謝りたかった。だが、それさえも果たせない。

(……俺の人生は)

 なんだったのだろうか。
 後悔ばかりが募り、ベルモンドの意識は闇の底へと落ちていった。
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