愛する祖国の皆様、私のことは忘れてくださって結構です~捨てられた公爵令嬢の手記から始まる、残された者たちの末路~
30.最後の秘密
エスカリーナで謎の疫病が流行りだしたと聞いて、レイデフォンが動き始めたとラーゼは直感した。
計画は実行に移され、リンゼット軍がマズロー山の麓に展開した。
その後、ラーゼもクロエも大したことをしなかった。エスカリーナは自壊したのだ。
崩れかけの積み木は、土台を揺さぶれば簡単に落ちてしまう。
「予想外のことがあったとすれば、シャンテの動きでしょうか。彼女は機会があればどこかの属国になったほうが良いと見切っていたのでしょうね」
ベルモンドは心中で同意した。
シャンテはずっと爪を研いで、国が傾く機会に備えていたのだ。
今思えば、離宮に閉じこもっていたのは保身術だったのだろう。
エスカリーナの王家は短命な者が多い……シャンテが病弱だと偽ったのは賢明であった。
それゆえレイデフォンの毒もシャンテには届かなかったのだから。
(……君が病弱なのも偽りだったのか)
なぜそんなことをしたのか、今のベルモンドにはよくわかる。
クロエはベルモンドのためにそうしたのだ。
完璧すぎるクロエが作り出した欠点が、病弱さということなのだろう。
確かにベルモンドはそれでクロエに対して優越感を持ち、反発心をいくらか抑えることができた。
(本当に浅ましいな、俺は……)
「あと残るのは、ひとつだけですね」
クロエがやや目を細め、何かを取り出した。
「この手記を、どうしてあなたが持っていたのでしょう?」
クロエが取り出したのは父の遺品にあった手記であった。
胸元に入れていた手記をクロエが回収したのだろう。
だが、ベルモンドはクロエの口振りに違和感を覚えた。
(君から父に渡したのなら、俺の手元にあって不思議はないはずだが……)
この手記は表に出せるものではない。
父亡きあと、ベルモンドに渡るのは必然ではないだろうか。
ベルモンドの瞳からクロエが困惑を読み取り、ため息をついた。
ラーゼがベルモンドを顎で差す。
「言ってやれ。この手記が本当は誰のものだったのか」
(……誰のもの? 父の物ではないのか?)
「この手記は私からシャンテに渡したものです。なるほど……いくらか書き足したのもシャンテですね」
「……っ!?」
ベルモンドは息が詰まりそうなほど驚愕して、身体を揺らした。
そんな、この手記は父に渡されたものではなかったと言うのか。
「シャンテにはずっと苦労をかけました。いつの日か、彼女の助けになればと書いて渡したのですが……」
この手記を拠り所にしてベルモンドは動いてきたというのに。
じゃあ、これまでのベルモンドの動きは――シャンテの毒が回った結果だというのか。
信じられない。
あの妹はおしとやかな裏で、こんな謀略を。
(シャンテにまんまと踊らされた……! 裏切られた……っ!)
歯噛みしたくてもできず、ベルモンドはひたすらベッドを揺さぶる。
その様子をラーゼはふっと嘲笑った。
「何を考えているかわからなくもないが、それはお門違いだ。手記ひとつで運命が変わるはずもない」
ラーゼがクロエの手元から手記を取り上げた。
「お前は結局、他人の書いた字とクロエの書いた字もわからない愚か者だったというだけのこと。お前は生きているクロエを放置して、こんな言葉に頼ってしまった」
「……ラーゼ様」
「行こう、クロエ。もう話すべきことは終わった」
クロエは立ち上がり、振り返りもせずに病室を後にした。
ベルモンドは彼女に手を伸ばそうとして、それさえもできなかった。
「今、貴様を生かしておくのは――貴様が死ぬとクロエが悲しむからだ。彼女に心から感謝するんだな」
ラーゼが唇の端を上げ、ベルモンドを睨んだ。
「貴様は知っていたのだろう? あのバネッサはレイデフォンの仕立てた女だということを」
「…………」
レイデフォンはずっと計略を練っていた。
その最大のものがバネッサだったのだ。
「ペドローサ公爵にも負い目があったのだろうがな。レイデフォンに孕ませた女がいたのは事実だったのだろう」
今ならわかる。
レイデフォンにとって一番の邪魔者はクロエだった。
彼女を排除するため、その計画のひとつがバネッサだったのだ。
もっともどこまでが計画のうちか、もう知る手立てはなかった。
それに知りたくもなかった。自分の愚かさを再認識するだけなのだから。
「全てを掴みながら、手放した愚かな男よ。貴様は生きながらに朽ちて、死ね」
ラーゼは病室の棚にクロエの手記を立てかけて、病室から出ていった。
見ずにいようと思っても、嫌でも視界に入る位置にあの手記がある。
(ああ、そうか――手記を読む前から、とっくに破滅していたのか)
きっとベルモンドとバネッサ以外の全員が、終わりだと思った時に計画が始まったのだろう。
そして救いの手だと飛び付いた先の手記は、死の秒読みに過ぎなかった。
あの手記を手に取る前からエスカリーナはこうなる運命だったのだ。
ベルモンドはようやくそれに気付いて、窓の外に目を向ける。
身体が動くのなら、この窓の先に身を投げ出したい。
だが、今の自分にはそれさえも許されなかった。
これが罰なのだ。朽ちながら栄光のリンゼット帝国を見つめなければいけない。
リンゼット帝国は恐らく繁栄するのだろう。
ラーゼとクロエ、ふたりの新しい主の元で。
計画は実行に移され、リンゼット軍がマズロー山の麓に展開した。
その後、ラーゼもクロエも大したことをしなかった。エスカリーナは自壊したのだ。
崩れかけの積み木は、土台を揺さぶれば簡単に落ちてしまう。
「予想外のことがあったとすれば、シャンテの動きでしょうか。彼女は機会があればどこかの属国になったほうが良いと見切っていたのでしょうね」
ベルモンドは心中で同意した。
シャンテはずっと爪を研いで、国が傾く機会に備えていたのだ。
今思えば、離宮に閉じこもっていたのは保身術だったのだろう。
エスカリーナの王家は短命な者が多い……シャンテが病弱だと偽ったのは賢明であった。
それゆえレイデフォンの毒もシャンテには届かなかったのだから。
(……君が病弱なのも偽りだったのか)
なぜそんなことをしたのか、今のベルモンドにはよくわかる。
クロエはベルモンドのためにそうしたのだ。
完璧すぎるクロエが作り出した欠点が、病弱さということなのだろう。
確かにベルモンドはそれでクロエに対して優越感を持ち、反発心をいくらか抑えることができた。
(本当に浅ましいな、俺は……)
「あと残るのは、ひとつだけですね」
クロエがやや目を細め、何かを取り出した。
「この手記を、どうしてあなたが持っていたのでしょう?」
クロエが取り出したのは父の遺品にあった手記であった。
胸元に入れていた手記をクロエが回収したのだろう。
だが、ベルモンドはクロエの口振りに違和感を覚えた。
(君から父に渡したのなら、俺の手元にあって不思議はないはずだが……)
この手記は表に出せるものではない。
父亡きあと、ベルモンドに渡るのは必然ではないだろうか。
ベルモンドの瞳からクロエが困惑を読み取り、ため息をついた。
ラーゼがベルモンドを顎で差す。
「言ってやれ。この手記が本当は誰のものだったのか」
(……誰のもの? 父の物ではないのか?)
「この手記は私からシャンテに渡したものです。なるほど……いくらか書き足したのもシャンテですね」
「……っ!?」
ベルモンドは息が詰まりそうなほど驚愕して、身体を揺らした。
そんな、この手記は父に渡されたものではなかったと言うのか。
「シャンテにはずっと苦労をかけました。いつの日か、彼女の助けになればと書いて渡したのですが……」
この手記を拠り所にしてベルモンドは動いてきたというのに。
じゃあ、これまでのベルモンドの動きは――シャンテの毒が回った結果だというのか。
信じられない。
あの妹はおしとやかな裏で、こんな謀略を。
(シャンテにまんまと踊らされた……! 裏切られた……っ!)
歯噛みしたくてもできず、ベルモンドはひたすらベッドを揺さぶる。
その様子をラーゼはふっと嘲笑った。
「何を考えているかわからなくもないが、それはお門違いだ。手記ひとつで運命が変わるはずもない」
ラーゼがクロエの手元から手記を取り上げた。
「お前は結局、他人の書いた字とクロエの書いた字もわからない愚か者だったというだけのこと。お前は生きているクロエを放置して、こんな言葉に頼ってしまった」
「……ラーゼ様」
「行こう、クロエ。もう話すべきことは終わった」
クロエは立ち上がり、振り返りもせずに病室を後にした。
ベルモンドは彼女に手を伸ばそうとして、それさえもできなかった。
「今、貴様を生かしておくのは――貴様が死ぬとクロエが悲しむからだ。彼女に心から感謝するんだな」
ラーゼが唇の端を上げ、ベルモンドを睨んだ。
「貴様は知っていたのだろう? あのバネッサはレイデフォンの仕立てた女だということを」
「…………」
レイデフォンはずっと計略を練っていた。
その最大のものがバネッサだったのだ。
「ペドローサ公爵にも負い目があったのだろうがな。レイデフォンに孕ませた女がいたのは事実だったのだろう」
今ならわかる。
レイデフォンにとって一番の邪魔者はクロエだった。
彼女を排除するため、その計画のひとつがバネッサだったのだ。
もっともどこまでが計画のうちか、もう知る手立てはなかった。
それに知りたくもなかった。自分の愚かさを再認識するだけなのだから。
「全てを掴みながら、手放した愚かな男よ。貴様は生きながらに朽ちて、死ね」
ラーゼは病室の棚にクロエの手記を立てかけて、病室から出ていった。
見ずにいようと思っても、嫌でも視界に入る位置にあの手記がある。
(ああ、そうか――手記を読む前から、とっくに破滅していたのか)
きっとベルモンドとバネッサ以外の全員が、終わりだと思った時に計画が始まったのだろう。
そして救いの手だと飛び付いた先の手記は、死の秒読みに過ぎなかった。
あの手記を手に取る前からエスカリーナはこうなる運命だったのだ。
ベルモンドはようやくそれに気付いて、窓の外に目を向ける。
身体が動くのなら、この窓の先に身を投げ出したい。
だが、今の自分にはそれさえも許されなかった。
これが罰なのだ。朽ちながら栄光のリンゼット帝国を見つめなければいけない。
リンゼット帝国は恐らく繁栄するのだろう。
ラーゼとクロエ、ふたりの新しい主の元で。