愛する祖国の皆様、私のことは忘れてくださって結構です~捨てられた公爵令嬢の手記から始まる、残された者たちの末路~

29.皇子と婚約者

 二年後、ラーゼは皇子同士の争いにあともう一息で勝利を収めるまで近付いた。
 レイデフォンの手口をクロエから教えてもらったのも大きい……暗殺や工作員も今は恐ろしくなくなっていた。

 秋晴れの涼やかなある日、ふたりはエスカリーナとリンゼットの国境で、緩やかに流れる川を見つめていた。

 日傘を差したクロエにラーゼは愛しげな目を向ける。

「澄んだ川だな」

 透明感のある川は美しく、小魚が群れるのも川辺から見えた。
 リンゼットの川は土質からここまで綺麗に映えることは少ない。

「エスカリーナの山の水は、とても良いな。清浄な気に満ちている」

 ラーゼの言葉は何気ないものであった。しかし、クロエは珍しく顔を曇らせていた。

「……どうかしたのか?」
「いえ……何でもありません」
「君はこの隔離された楽園に暮らしていながら、外のことをよく知っている。何か聞いたのか」

 ラーゼは彼女のことをエスカリーナの他の人間よりも理解していた。
 彼女は情ある人間だ。故郷が苦境にあれば心を痛めてしまう。

「俺の耳にさえエスカリーナの乱れ具合は届いてきている。王太子妃は夜ごとに贅沢をせねば気が済まない。政治も能力ではなく依怙贔屓で官僚を登用しているがため、庶民も大きな不満を持っているとか」

 エスカリーナの王家が抑え込んできた不満を今の王太子は理解していない。

「今のトルカーナ四世も長くない。彼が死ねば、混乱にはより一層拍車がかかるだろうな」
「その通りでございます」

 彼女は目を伏せた。それから彼女は何も言わなかった。

 ラーゼも何も言わなかった。彼にはまだ力が足りない。
 邪魔な皇族がまだ残っており、エスカリーナに関われる余裕がなかった。

「君が優しい人間というのは知っている」
「…………」
「エスカリーナを憂う気持ちは俺にはない。俺は所詮、リンゼットの人間だ」

 ラーゼは軽く自嘲した。

 自分自身は故郷のリンゼットを憂いたりという気持ちはなかったが。
 ただ、生きるために闘う。その舞台がリンゼットなだけだ。

「だが君の沈んだ顔を見たくない。君の気持ちが晴れるよう――全力を尽くそう。もう少しだけ待ってくれ」
「宜しいのですか。そんなことを約束されて」
「口にしたことは必ず守る。俺の手紙が遅れたことがあったか?」

 彼女がふっと笑った。

「どんなに忙しくてもあなた様は必ず手紙を返してくれて、会いに来てくださいます」
「君との時間はかけがえがない。それだけは本当だ」

 ラーゼが彼女の手を取って立ち上がる。
 柔らかく、白くて小さな手。

「私もです。このままずっと、外のことなんて考えず穏やかに生きられたらいいのに」

 彼女の身体がゆっくりとラーゼに寄って、体重を預けてきた。
 ラーゼも彼女の肩を抱いた。そのままふたりは川の流れを見つめていた。

 半年後、トルカーナ四世が世を去った。

 ほぼ同じ頃、ラーゼは暗闘を制してリンゼット帝国の皇太子となった。
 ラーゼの政敵で降伏した者は傘下に組み込まれ、抗う者は徹底的に粛清された。

 そうした血なまぐさい争いが終わりを迎え、帝国は外に目を向け始める。
 小競り合い程度ではない他国への拡大。

 リンゼットの中においてエスカリーナは格好の標的であった。
 リンゼットの貴族たちはこぞってエスカリーナへの侵攻を提案してきた。

「殿下! エスカリーナは新王でもまとめられていないとか。またとない機会ですぞ!」
「マズロー山を抜けば広大な平野。大きな戦果が見込めるはずです!」

 ラーゼはそれらの提案を抑え込んだ。

 そしてクロエと会談をする日。
 最新鋭の鉄道に揺られ、ラーゼは彼にしては珍しく物思いにふけっていた。

(理屈ではわかっている。今のエスカリーナは弱い。戦争に持ち込めば大きな利があろう。レイデフォンも動いている。放っておけばエスカリーナはレイデフォンに侵食されるだけだ)

 利害では計算できていたが、ラーゼはそうしたくなかった。
 彼女の愛したエスカリーナを傷つけたくなかったのだ。

 冬が近付いても彼女の住むところには雪が降らない。どこか温かく、山の恵みはたくさんの果実を実らせていた。

 ラーゼは今日の会談が運命の分岐点になると感じていた。

「近くの山のブドウで作ったワインです。今年の出来はかなりのものだとか」

 毎年、秋になるとクロエは様々な美味を提供してくれた。

 今年は芳醇な赤ワインのようだ。
 テラスに用意されたご馳走に舌鼓を打ちながら、ラーゼはグラスを回す。

「酸味のバランスがとても良いな。上等で、肉によく合うワインだ」
「ありがとうございます」
「リンゼットは山が少なく、このようなワインは早々口にできん」

 エスカリーナの食はリンゼットよりも遥かに良い。
 もっとも大量生産は考えておらず、輸出も微量らしいが。

「最新の技術を導入すれば生産量も増え、国はより豊かになるだろう」
「エスカリーナの貴族の大部分は、今そのようには考えないでしょう」
「なぜだ? 国を富ますのが領主の役割ではないのか」
「石炭が出る国で、地道な殖産事業は好まれません」
「……なるほどな。エスカリーナが外から得る富の大部分は石炭のはず。それがある限り、農業などやらぬと」

 そういえば国王夫妻は、王が死んでからも貴族を集めて豪勢な催しを行っているらしい。
 しかも王都でそのようなことを繰り返しているという。
 そんなことをすれば貴族は自分の領地に帰れなくなり、地方民の不満は募るばかりだろう。

「聞くところによると、リンゼット帝国では諸国へ攻め入るべきだという意見が大きくなっているのだとか」
「そなたにもわかるほどか」
「エスカリーナもその対象に入っているのですよね?」

 ごまかすこともできたが、ラーゼは静かに頷いた。
 彼女に嘘はつきたくなかった。

「やはりですか。今のエスカリーナは乱れております。レイデフォンもリンゼットも……いえ、それ以外の国も放ってはおかないでしょう」
「だろうな」

 ラーゼは彼女の佇まいを見つめていた。

 彼女には常に憂いと迷いがあった。
 これほどの知性を持ちながら、なぜ辺境に身を置き続けるのか。

「君はずっとここにいるつもりか?」
「……私は」

 クロエの瞳が揺れる。

「エスカリーナから望まれていません」
「関係ない!」

 ラーゼは立ち上がり、彼女のそばに寄った。

「君がどうしたいかだ。君は……この国を救いたいのか。それとも他に目的があるのか」
「私は――この国を良くしたいと思います。ですが、それ以上に……」

 彼女の手がそっとラーゼの手を取って、包んだ。

「あなたを煩わせたくありません。大切な人だから」
「君のためであれば、俺は何でもする。許されなくてもな」

 ラーゼは彼女の手を軽く握ったまま、膝をついた。

「俺は君に救われたんだ。あの日、信頼できる者たちの命だけじゃなく、俺自身も。そんな君が鬱屈としたものを抱えて、月日を無駄にしていいわけがない」

 ラーゼは祈った。目の前の彼女が再び立てるように。
 その想いは語らなくても彼女にはもう届いていた。

 お互いの名前を知らなくても、培った信頼と情愛がクロエに涙を流させる。
 あの日、婚約破棄した日に枯れ果てたと思っていたのに。

「俺の名を聞いてくれるか?」
「……はい。あなたの名前は?」
「俺はラーゼ・リンゼット。リンゼット帝国の皇太子だ。君の名前をどうか聞かせてくれ」
「私はクロエ・ペドローサ。聞いたことがあるでしょうね?」

 涙を流しながら問うクロエにラーゼは頷いた。

 二年半前、エスカリーナで起きた婚約破棄事件。
 表向きは病気関連であったと言うが、内実についてラーゼはおおよそを掴んでいた。

 目の前の人物がそのクロエと知って――ラーゼの心を埋め尽くしたのは怒りだった。
 聞く限りクロエは何も悪くない。

 それなのに、ベルモンド王は一方的に彼女を捨てて傷つけた。
 クロエはそれから何年も辺境にいて、あえて静かに暮らしていた……のに、エスカリーナは大きく傾こうとしている。

「君の名前がどうであろうと、君は君だ」
「ラーゼ様……」
「君はずっと嘘をついてきた。エスカリーナのクロエは病弱だと聞いていたが、今までの君を見て、そんな印象は受けない」

 ラーゼの言葉にクロエは本気で目を見開いた。

「これでも俺は人を見る目はある。病弱だと偽っていたのは……エスカリーナのためか」

 問われてクロエは答えられなかった。
 それこそクロエが重ねてきた最大の嘘であったから。

「……人には欠点があるほうがいいのです」
「凡人にとってはそうかもしれぬな。君は鋭く、魅力あふれる。帝国にも君のような者はおるまい。だが、才能あるゆえに偽らねばならないのか?」

 クロエは目を伏せた。
 それがクロエの答えであり、生きていく術であったからだ。

「そこまで祖国に義理立てする必要があるのか。君が愛しているのはわかる。だが、君の愛したものは変容し、もはや死に体に近い」
「だとしても私には何もできません」
「君は何もしなくていい。俺がする」

 その言葉にクロエは一瞬、迷ったようであった。

「ただ、俺のそばにいてくれないか。俺は君がそばにいてくれるのなら、何でもできる」

 ふたりの絆は分かちがたいものであった。
 クロエは涙を拭い、頷いた。

 こうしてクロエはラーゼの婚約者になった。
 あくまで秘密裏に、名前や経歴の全てを偽って。

 ラーゼもクロエのことを極力隠して、情報を隠匿した。

 最初の頃はもちろんクロエを訝しむ者も少なくなかった。
 だが、ラーゼは持ちうる全ての力を使って、反対意見を叩き潰した。

 クロエは万事控えめであったが、話した者全員を魅了する知性を持っている。
 数か月してクロエを疑う者はいなくなった。

 接した誰もがラーゼの婚約者として彼女がふさわしいと思ったのだ。
 同時にクロエはその頃、リンゼット帝国のダーツナル大公家の養女となって名前をクロエ・ダーツナルと改めた。

 全てが整う中で、ラーゼはエスカリーナから目を離さなかった。
 トルカーナ四世が死んでからエスカリーナ国内の状況はますまひどくなるばかり。

 ラーゼはついに動くことに決めた。

(だが、直接戦火を交えてはクロエが悲しむだろう)

 彼女は必要とあれば計算もできて打算的に動ける。しかしそうしたくはないようであった。
 ラーゼとしても必要最低限の武力行使だけで済ませたかった。

 リンゼットとしてもエスカリーナと長期戦をすることは望んでいない。

 計画は全てラーゼひとりが考え、組み立てた。クロエを信用していないわけではない。
 ただ、彼女の助力なしで成し遂げることこそ、意味があると思ったのだ。
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