愛する祖国の皆様、私のことは忘れてくださって結構です~捨てられた公爵令嬢の手記から始まる、残された者たちの末路~

5.希望

 しかし手記を置くことはできなかった。
 王宮を去って以後、クロエはエスカリーナ王国の表舞台から消えている。

 あれから王都にさえクロエは足を踏み入れていない。

 クロエに手紙を書こうと思ったこともあったのだが、それを知ったバネッサが激昂したために――クロエと接触はできていなかった。

 今の難局にクロエならどうするか。それを考えない日はない。
 あるいは実務を担わなくても、相談相手としてだけでもいいから王都にいてくれたら。

 手紙でもクロエの知性ならプラスに働くのに。
 そこまで考えて、ベルモンドの心に去来したのは敗北感であった。

「三年前の手記に、何を期待する? は、はは……」

 この手記が書かれたのは三年前。それより新しいということはない。
 そんな元婚約者の手記に国王がすがる? 希望を見出す?

 敗北だ。他の側近にも言えるわけがない。
 ベルモンドは執務室のテーブルの上にある、盆に目をやった。

 不要なモノは盆に載せておけば処分される仕組みだ。

「ふん……っ」

 ベルモンドは指が震えるまま、手記を盆に載せる。
 これで終わりだ。あとは執事に今日の作業が終わったことを告げて、立ち去るだけ。

 そうすれば――ベルモンドがふらりと立ちくらみを起こす。
 なんとか机に掴まり、ベルモンドは毒づく。

「……くそっ!」

 ベルモンドにはわかっていた。
 間違っていたのだ。クロエなしでエスカリーナ王国を差配するのは困難極まる。

 バネッサではクロエの代わりは務まらない。
 このままではエスカリーナという国は空中分解してしまう。

 国内の貴族がバラバラになるか、自分が壊れるか。どちらが先かは知らないが。
 あの時、三年前にそれがわかっていれば……今日の苦労もなかった。

 同じ過ちを繰り返してはならない。

 つまらないプライドのために、明確な答えを手放すのは一度だけでいい。
 立ちくらみから回復したベルモンドは口を引き結び、手記をもう一度手に取る。

「はぁ、はぁ……!!」

 そのままベルモンドは手記を大切そうに抱きしめた。
 過ちを認めるのは苦痛だ。だが、この状況がずっと続くのはそれ以上の地獄だ。

 手記の最初のページを開き、読み始める。
 こんなに緊張して文字を読むのは、ベルモンドの人生で初めてだった。

「頼む……っ」

 祈りながらベルモンドは手記の文字に指を這わせる。

『私がいなくなって数年後、もしお困りの際はお読みください』

 最初の一文を読んで、ベルモンドは心の底から安堵する。

「……やった!」

 この手記はクロエが残してくれた、打開策に違いない。
 父がなぜこれを執務室に放ったらかしにしていたのか、それはわからないが。

 亡き父に対してちらと怒りの炎が胸に渦巻く。

「さっさとこの手記を俺にくれれば……いや、今でないと受け取らないか」

 バネッサと結婚直後のベルモンドがこの手記を見つけても、捨てていただろう。
 父は恐らくそれを見越して何も言わなかったのだ。

「……まだ間に合うはずだ」

 逸る心を抑え、ベルモンドはさらに手記を読み進めようとする。
 このクロエの手記は希望だ。

 早く、早く読まなくては……。
 だがそれは執務室を叩く激しいノックに中断されてしまう。

「陛下、申し訳ございません! ただいま宜しいでしょうか?」
「……なんだ?」

 執務室の外から聞こえる文官の声に、苛立って返すベルモンド。

「バネッサ様が財政官を免職にすると仰せで。すぐに陛下とこの件で会談したいと……」

(起き出したと思ったら、すぐにこれか)

 ベルモンドが眉間を揉む。
 財政官はバネッサの浪費癖を抑制するため、ベルモンドがバネッサの元に派遣した官僚だった。だが、どうやらバネッサは大層気に入らなかったらしい。

「わかった、すぐに行く」

 ベルモンドは手記を大切にしまい、執務室を出た。
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