シュガーレス・マリアージュ 〜君の嘘と、甘い毒〜
第1章:幼馴染という名の檻
東條デパートの企画室は、午後六時を回っても白い光が紙の端を乾かしていた。
冷めたコーヒーに指を伸ばし、東條 咲は山と積んだ見積りをもう一度めくる。指先が紙の角でちくりと痛んだ。

——百年の看板は、時に肩に食い込む。
入社してからずっと、最初に来て最後に帰る。朝、シャッターの隙間から漂う焼き菓子の甘い匂いは好きだ。祖母と手をつないで屋上へ上がった日の記憶が、包装紙のインクの匂いと一緒に胸に残っている。だからこそ、外から貼られた「お嬢様」や「腰掛け」というラベルだけで、この店の未来を語られたくなかった。

パソコンの画面には仮タイトルが揺れている。
〈屋上庭園リニューアル——“百年目の初夏祭”〉
古い観覧車の支柱をライトアップして、上層階の遊休スペースを植物と本で満たす。外商顧客向けの静かなサロンと、若い親子が安心して座れるピクニックエリア。来館スタンプは紙に押すだけじゃなく、アプリでも。ARの飾り窓で、昔の包装紙がふわりと浮かぶギミック——伝統と今を、同じ風で揺らす。

「咲、まだ残ってたの? 社長にお小言言われるよ」
顔を上げると、麻美がコートを腕に掛けて笑っていた。唯一、名字より名前で呼んでくれる先輩だ。

「大丈夫です、麻美さん。今日中に出したくて」
咲はホチキスで留めた束を軽く叩く。「これで、“古いから良い”じゃなく“今いい”って言われるようにしたいんです」

「いいじゃない。屋上、私も子どもの頃好きだったな」
麻美は画面を覗き込んで、声を落とす。「……でも、中の空気は読んでね。ほら、匿名掲示板、また変なこと書かれてたから」

脳裏に、昼に目にした薄汚れた文字列がよぎる。
《特別枠》《肩書で企画通すつもり?》
笑って流せたらどんなに楽だろう。けれど、流した笑いは胸のどこかに沈澱する。

「気にしてません」
そう返した瞬間、給湯室の方から一瞬だけ囁き声が漏れた。「東條さんは——」と続いた言葉は聞き取れない。聞こえなかったふりをして、咲は付箋を一枚、もう一枚と立てる。

廊下の自動ドアが開く音。夜に似合わない革靴が、静かなフロアに規則正しい影を置いていく。足音は企画室の入口で止まり、低い声が落ちた。

「まだ、戦ってるのか」

振り向いた先——黒のコートに雨粒の名残。切れ長の目元が光を拾う。
シンフォニア・ホールディングスCEO、神崎 怜央。咲の幼馴染みにして、いまや業界のニュース見出しを賑わす名だ。

「……怜央」
名前で呼んだことに自分で驚いて、咲は慌てて姿勢を直した。「シンフォニア様、どうしてこちらに」

「“様”はやめてくれ」
怜央は苦笑し、目だけで室内をひとめぐりする。「遅くまで残ってると聞いたから。通りがてら、顔を出した」

「通りがてらに寄れる距離じゃないと思うけど」
麻美が明るく割って入る。「私はお先に失礼しまーす。咲、ちゃんと鍵閉めてね」

麻美が去ると、室内は蛍光灯と空調の音だけになった。怜央は咲の向かいのデスクに視線を落とし、モニターの仮タイトルを読む。

「〈百年目の初夏祭〉、か」
唇の端が、懐かしさでほんのわずかに和らぐ。「屋上のカエルの噴水、まだある?」

「……覚えてるんだ」
咲は肩の力が少し抜けるのを感じた。「あれを中心に、緑と本で“滞在”を作るつもり。買って帰るだけのデパートから、過ごしに来るデパートへ」

「いい。東條に必要なのは、時間の贅沢を思い出させることだ」
怜央は一歩近づいて、画面のもうひとつのタブを指した。「で、こっちは?」

〈オムニチャネル移行計画(案)——決済・在庫・会員統合〉

「連携アプリの導入、決済一体化、ECと売場の在庫同期……やりたいことは山ほど。けど、社内の合意形成が——」
言いかけたところで、怜央が短く「明日」と言った。

「明日九時、共同記者会見をしよう。シンフォニアと東條の“百年×今”の実証実験。君の〈初夏祭〉を、うちのリアル連動で走らせる。決済・在庫・会員はシンフォニアIDにぶら下げる。データは東條に返す」

「ちょ、ちょっと待って」
咲は椅子の背に手をかけた。「そんな大ごと、私は聞いてない。父の了承も……社内調整も」

「もちろん社長には今夜、正式に提案に上がる。外野に先んじて、俺と君で骨子を固めたい」
怜央は声を落とす。「——“君と”。外から見れば、その言葉が既に火種になるのはわかってる」

頬の内側を噛む。言わなくても、わかっている。
幼馴染み。老舗の令嬢。ベンチャーの寵児。
並べば噂になる二つの名前。

「私が窓口になるのは、得策じゃない」
咲は正直に言った。「社内の反発も、世間の目も、両方、来る」

「それでも君が一番速い」
怜央は即答した。迷いのない目。
「速さが必要だ。東條は今、遅いほど痛む。外商の離脱、上のフロアの空白、休日の家族連れの流出。君は現場を見て、数字の先に人の顔が見えてる。——それを知っている俺が君を指名する。それだけだ」

モニターの隅で、社内チャットが明滅した。
《掲示板:百周年企画の窓口に“あの人”の名前?》
《神崎CEOとの癒着って本当?》
《また特別扱い?》
息を呑むほど、速い。噂はもう、足元を流れ始めている。

「見ないで」
思わず画面を伏せる。怜央が咲の手元に視線を落とし、眉をわずかに動かした。

「噂は俺が引き受ける。明日、俺が前に立つ」
淡々とした口調だった。「否定も説明も俺がやる。君は企画と現場だけを守れ」

「……守りたいのは、東條で。私自身じゃない」
声が震えないよう、ひと呼吸置く。「でも、私が前に出れば、東條に火の粉が飛ぶ」

「前に出るか、出さないかを決めるのは君だ」
怜央は視線をまっすぐに合わせてくる。「俺が頼むのはひとつ。——君の目で、東條の“今”を定義してくれ。百年を“よかったね”の記念写真にするか、“つづく”の一頁にするか」

蛍光灯の白が、紙の束の影を濃くする。
屋上の風。包装紙の手触り。祖母の手のぬくもり。
——百年の記憶は、過去形にするためだけにあるんじゃない。

「……わかった」
咲は椅子から立ち上がった。膝がわずかに笑う。けれど、声は真っ直ぐに出た。
「やります。私が窓口になります。明日の九時、私も前に出る。——東條のために」

怜央の目が、短く安堵の色を帯びた。すぐに、それを仕事の温度に戻す。

「じゃあ、決まりだ」
彼はコートの内ポケットから細い封筒を取り出し、デスクの端に置く。「これ、うちの連携仕様の抜粋。今夜、君の目で赤を入れて。古い良さを壊す線があったら、遠慮なく引き返させろ」

「ありがとう」
封筒を指先で確かめる。紙の重さは思ったより軽いのに、中の時間は重い。

「それと——」
怜央が少しだけ声を柔らげた。「さっき、君が“様”って呼んだの、嫌いじゃないけど。俺は、咲に“怜央”って呼ばれたい」

胸の奥の糸が、きゅっと結び直される。言葉にするには近すぎる距離。
けれど、これは仕事の約束だ。私情を盾にしないための。

「……怜央。気をつけて帰って」
やっとの思いで名前を返すと、彼は目だけで微笑んだ。

自動ドアが閉まる。足音が廊下の端に消えていく。
残された静けさのなかで、社内チャットの通知がまた弾けた。
《緊急:明朝九時、本店ホールにて共同発表予定——一部メディアに情報が流出》
《SNS監視強化、コメント方針草案作成を》

速い。やっぱり、速い。
咲は封筒を開けた。細い紙の一枚目に、赤いペン先が触れる。
書き込む文字は震えていない。震えさせない。

——明日、百年目の初夏が始まる。
それを“つづく”にするかどうかは、私の一行にかかっている。
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