シュガーレス・マリアージュ 〜君の嘘と、甘い毒〜
第二章「取締役会の決断」

それから数日、咲は怜央の冷たい視線と、突き放すような言葉を胸の奥で反複しながら、ただ手を動かし続けた。あの夜の再会は、忙しない日常のざわめきに削られ、まるで夢の輪郭だけを残して溶けていく。

その日常は、あっけなく崩れた。

ある朝、内線が短く震えた。
「お嬢様……社長が、急にご自宅で倒れられました」
受話器が掌から滑り落ちそうになる。父はすぐに搬送され、診断は過労による重度の心不全。当面は絶対安静、と医師は告げた。

東條デパートは、百年の歴史に甘えていたわけではない。だが、来店客数の鈍化、上層フロアの空白、ECへの流出——時代のうねりが店の骨を静かに軋ませ、ここ数年で業績は急激に痩せた。父は、その重みをほとんど独りで支えていたのだ。

入院から三日後。東條家の重役と親族が本家の応接間に集められた。分厚い絨毯が足音を吸い、古い振り子時計だけが時間を進める。場違いなほど若い自分の輪郭を、咲は椅子の硬さで確かめた。
「咲、お前も座れ。東條家と、東條デパートの今後を決める」
叔父である専務の声は乾いていた。

会議は、巨額の負債と資金繰りの逼迫を淡々と突きつけるだけだった。このままでは、老舗の暖簾は守れない——その結論に、誰も異を唱えない。

「そこで、重役陣で協議を重ねた結果——ひとつの方策に辿り着いた」
専務は、咲を値踏みするように見据え、重く言った。
「咲。お前には、高千穂グループの御曹司、高千穂 隼人と結婚してもらう」

呼吸が止まる。高千穂——東條の歴史的ライバルであり、いまや急伸する総合商社。
「高千穂は東條のブランドと、都心一等地の資産価値に関心を寄せている。今回の提携で巨額の出資を確約した。その交換条件が、東條家と高千穂家の縁組だ。すなわち——お前と隼人君の婚約である」

読み上げられる契約条項のような口ぶりに、咲の意志は最初から存在しない。
「そんな……! デパートの再建は、ほかの手で——」
立ち上がりかけた言葉を、専務の鋭い声が切った。
「黙れ、咲。お前の“企画ごっこ”で埋まる穴ではない。これは家のためだ。東條の娘として務めを果たせ」

唇を噛む。東條を救う唯一の道が、自分の結婚という形で机に置かれている。

会議が散じた後、咲は自室の窓辺に立った。夜景の粒が、遠い。あの夜、怜央と見上げた光——もう別の街のもののようだ。
“社長令嬢”という立場は、自由な恋も、自分の望む生き方も許さない。華やかな装いをした檻。その bars を撫でるように、怜央の言葉が蘇る。
『お前が安心できる檻の中の遊びだろ?』

——違う。これは遊びではない。
父が築いた歴史を守るため。東條を過去形にしないため。無力な自分で終わらないため。
咲は静かに拳を握り、窓を閉じた。

政略結婚を受け入れる——その決意は、もう二度と怜央に会えないかもしれない、切ない覚悟を伴っていた。指にはまだ高千穂からの指輪はない。それでも、この瞬間、心にはすでに、氷の輪がはめられている。溶けることを許されない、無音の婚約の鎖が。
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