シュガーレス・マリアージュ 〜君の嘘と、甘い毒〜

第10章：偽りの婚約発表

雨上がりの夜に怜央と心を通わせ、咲は確かな愛と、デパート再建への新たな覚悟を得た。しかし、現実は甘くなかった。
東條デパートの経営危機は予断を許さない状況にあり、高千穂グループからの巨額の出資話は、もはや命綱となっていた。咲が政略結婚を拒否すれば、デパートは倒産し、従業員の生活と父の築いた歴史がすべて崩壊する。

怜央は「俺が何とかする」と断言したが、その準備が整うまでには時間が必要だった。咲は、怜央と自分の未来を守るため、そしてデパートが自力で再建する時間を稼ぐため、痛みを伴う決断を下した。

偽りの婚約発表を強行すること。それは、第9章で「もう嘘はつかないで」と願った自分自身への、最も切ない裏切りであり、愛する人を守るための自己犠牲だった。

東條デパートの株主総会の日。会場となったホテルの大広間は、重役と株主たちの緊張した空気で満ちていた。
咲は、純白とは異なる、控えめなアイボリーのドレスに身を包んでいた。隣には、婚約者として高千穂 隼人が立っている。隼人は、怜央とはまた違う、社交的で柔らかな笑みを浮かべていたが、その瞳の奥には、東條グループを完全に手中に収めようとする冷酷な野心が宿っていた。

総会の終盤、専務が重々しく壇上へ上がり、正式に高千穂グループとの資本提携を発表した。そして、最後の締めくくりとして、咲と隼人の婚約が発表された。
「皆様にご報告申し上げます。この提携を確固たるものとするため、我が東條家の長女、咲と、高千穂グループ御曹司、隼人氏の婚約が決定いたしました」

無数のフラッシュが一斉に焚かれる。咲は、隼人に手を引かれ、作り笑顔を浮かべた。その笑顔は、あまりにも脆く、偽りに満ちていた。

その時、大広間の扉が、勢いよく開け放たれた。
周囲のざわめきを一瞬で静める、冷徹で絶対的な存在感。
そこに立っていたのは、怜央だった。彼は、いつもの完璧なスーツ姿ではあったが、その呼吸は荒く、表情には強い焦燥が浮かんでいた。彼はこの発表を、一刻も早く止めようと駆けつけたのだ。

怜央は、咲と隼人の並ぶ姿を見るなり、激しい怒りに顔を歪ませた。
「東條咲！何をやってる！」
彼の声が会場に響き渡る。隼人は顔色一つ変えず、怜央に優雅な笑みを向けた。
「神崎社長、残念ながら、もう遅い。彼女は今、私のフィアンセです」

怜央は、人垣を押し分けて、咲の元へとまっすぐに歩み寄る。
「来い、咲。お前の選ぶ道は、これじゃないはずだ！」怜央は咲の手を取ろうとする。
しかし、咲は、その手が触れる直前で、一歩後ろに下がった。
咲は、目を閉じて、心を完全に氷で覆う。そして、冷たく、感情のない声で怜央に告げた。

「神崎社長。今、この場は、東條デパートと高千穂グループの未来を決める、重要な総会の場です」
「咲…？」
「あなたの個人的な感情を持ち込まないでください。私の選択は、私の意志です。これで、会社は守れる。私は、あなたをこの危険な流れから遠ざける。…あなたとの未来よりも、東條デパートの歴史を選びました」

それは、怜央が咲に投げつけた冷酷な言葉を、そのまま彼に返すような、決定的な突き放しだった。
怜央の顔から、すべての色が消え失せた。彼は、咲の瞳の奥に、あの夜、心を通わせた愛の光が、どこにも見当たらないことに、絶望した。

咲は、彼にこれ以上の危険が及ばないよう、わざと彼との関係を断ち切ったのだ。
すれ違いと誤解は、一時の融和を経て、再び最も切ない形で二人を襲った。